黎明5

  懺悔僧としての徳富蘆花

   一
 逝く日が近いと気づいてゐたが、彼の心を静かな森の外側に引き出さないために、私はわざと伊香保まで行かなかった。逝いたことを新聞で知った私は、蘆花氏の気持を思うて泣いたのであった。
 蘆花氏は、一生のうちに、何人くらゐの人を愛したか私は知らないが、厳格なピューリタニズムを持った彼の良心は。さう多くの人を愛し得なかった。その中でも私が彼に愛せられた一人であることを知ってゐるので、嘸かし私の顔が見たかったらうとは考へてゐたものの、森の静かさに浸ってゐた彼をさう度々攪拌するのは気の毒であったので、時々たまにしか会ひに行かなかった。しかし、蘆花氏は、私の出してゐる個人雑誌『雲の柱』の愛読者で、隅から隅まで読んでゐられるのには、私も恐縮した。
 危篤の伝へられた夏の初めの或る日のことである。夫人から私に会ひたがってゐると云ふ言づけがあったので、私はあの静かな櫟林の細道をつたって柴折戸を叩いた。
 寝てゐるだらうと思ってゐた私には、元気よく椅子にもたれて、起き上ってゐる蘆花氏を見ることは、全く不思議であった。蘆花氏は直ぐ信仰の話をし出した。
「もう神に賭(は)りました」
 さう彼は大きな眼を光らせて私に云った。
 その前の月に、「神の賭博者」といふ題で『雲の柱』の巻頭語を私は書いた。そのことを彼はいってゐるのだ。彼は私と一緒に祈った。足が徳利のやうにはれ上ってゐた。蘆花氏は、私が祈った時に大きな声で「アーメン」と附け加へた。
『富士』の話が出た。私は、今後病気が良くなれば、富士の頂上を究めたものは降りて来ねばならぬことを彼に話した。
「さうだ、さうだ」
 と彼は頷いた。彼が逝く前、数年間に彼は贖罪と云ふことを屡々私に繰り返した。彼は色々な形でキリスト教の意味を瞑想してゐたやうである。勿論彼のキリスト教は、一般のキリスト教とは大分距離があった。彼の純な非妥協的な気持が、村で酒を売りながら教会に出席する或る人たちと相容れなかったことは当然である。彼は、伯母にあたる矢島楫子をさへその点では容赦しなかった。彼は、あまりに正直で、あまりに神のための馬鹿者であった。彼は、彼の五つの時に起った出来事の為に、ほとんど常人には解せられない精神的不具者になってしまった。それは『新春』の初めを見ればよく解る。恐らく日本で書かれた最も厳格な告白文の一つは『新春』の最初の数十頁であらうが、私はあまり気の毒で、一々彼の胸のうちを
訊き正す勇気を持たなかった。彼に廠粛な神の姿が濃厚になると共に、あの『新春』の告白録に出てゐるやうな影が彼の全身をおほひかくして、彼を死の蔭に追ひやった。
 彼は一生を懺悔僧として送ってしまった。世間では彼を我儘者と呼び、臆病者と云ひ、あらゆる言葉で彼に悪評を浴びせかけたが、五つの時の出来事を真面目にとった彼は、父の死んだ時すら、お葬式に出られなかったほど悲しみ悶えた。
 兄貴に対して、色々不満足な点もあったらう。しかし、私が見たところによると――少しは間違ってゐるか知れないけれど――彼が最も不満だったのは彼自らに対してであった。そしてその次は彼の母に対してであった。そしてその次に彼の母をさうした間違ひに導き入れた父に対して彼は不満足を感じてゐた。兄貴に対する不満足の如きは、彼の魂にとっては、さう大きな問題ではなかったらう。彼はそれほど野暮ではなかった。
 彼は一生の求道者であった。そして、彼の不思議な心理を知るものは、キリストだけであったらう。彼は地上に於ける最大の罪悪に就いて煩悶した。そのために彼の心は暗くなった。彼はそのために父と母との死ぬのを待ってゐた。まあ何といふ矛盾したいひ方であらう。しかし、彼の五歳の時の出来事が、そんなにまで彼を苦しめたのであった。そして母が死に父が死んだ後。初めて彼は罪の赦されたことを意識し、復活のキリストを見たのであった。私は、彼ほど自己に向って、厳粛だった懺悔僧を未だ日本に於いて見たことがない。一面からいへば彼はキリストを信じながらも罪の赦しを信じなかった人間であらう。そこに彼の弱味があった。けれども一面からいへば、そこに人間としての実に深刻な自己内省が彼を支配してゐた。あれほど内側に深く食ひ入った峻厳な道徳律を守ってゐた人間を私は多く知らない。彼は実に寂しい人であった。あまりに寂し過ぎた。彼は自分が作ったトラピストに自分一人でたて籠った。ああまでしなくてもよささうなものだのにと、人々は考へたであらうが、魂の扉の内側を知る人にして初めて蘆花氏の煩悶は読めた。今時のクリスチャンにあれほど厳格な人は少い。彼は真個のトルストイアンであった。いや、トルストイは贖ひに就いて瞑想しなかったが、健次郎氏は贖罪に就いて瞑想するまで、人間の誤謬と良心の罅(ひび)に就いて悩んだのであった。さうした自己内省の領域を知らない人間にとっては、蘆花氏が『新春』以後に書いたものは少しも面白くなからう。しかし、彼ほど正直な厳格な心理学者はなかった。彼は自己を隅から隅まで点検して新生への勇躍に最上の努力を払った。私がかういふ書き方をすると、文学的に斯ういってゐるのだと人は考へるかも知れないが。彼の宗教的気分をよく知ってゐる私である。それか現実的にさうであったことを知って貰ひたい。
 私は、彼が情熱的に私を愛してくれてゐることを知ってゐた。何年前のことであったか私は忘れてしまったが、日は確か一月十四日の晩であった。彼が再度の聖地旅行から帰って来て間もない頃である。彼は愛子夫人と、私が兵庫の湊川教会で説教してゐるところへやって来た。そしてストーブの脇の長いベンチに夫婦で腰を下ろした。その頃はまだ日本では婦人があまり洋服を着てゐなかったから、愛子夫人の洋服姿が眼についた。私はその時まで蘆花氏の顔を十分知らなかったので、人の好ささうな米国移民の夫婦者が私の話を聞きに這入って来たのだと考へてゐた。話が済んで会衆が去った後、彼は予言者のやうに私に近づいて来た。そして、「君は僕の顔を憶えてゐないか」
 かう彼は私に訊いた。勿論私は彼の顔を憶えてゐる道理はない。明治四十年頃、青山学院の講堂で、黒眼鏡をかけた蘆花氏の顔を遠くから見たことがあったけれども、その輪郭を私は記憶してゐない。
「君は僕の兄貴の処には?々行くにかかはらず、僕の処には、何故来て呉れぬのだ?」
 と彼は云ったけれども、私はまだ気が附かなかった。そして愛子夫人が「徳冨です」と云はれたので。彼の兄の蘇峰氏とその輪郭に
似通ってゐる点のあることを私は発見した。蘇峰氏は私を手引きするやうに一々親切に色々なことを教へてくれる。あの忙しい文筆生活の中で、私の為には六時間も七時間も色んなことに就いて個人的指導を与へてくれるのであるが。それに引きかへて蘆花氏の峻烈なこと、私は初め会った時には全くど胆を抜かれてしまった。しかし、私が日本人から歓迎をうけたうちで、蘆花氏の歓迎くらゐ私を歓喜せしめたものは無かった。彼は私に飛びついて来て、西洋人がするやうに私をかたく抱きしめ、子供に云ふやうに私に感謝の言葉を述べてくれた。彼は私の詰まらない詩集『涙の二等分』と共に太平
洋を東から西に渡ったことを告げてくれた。そしてその場で私に二つの忠告をしてくれた。第一は貧民窟を出よと云ふことであり、第二はあまり苦しい生活をしないで、少し楽な生活をせよと云ふことであった。そしてその忠告は、子供が生れることによって、守らざるを得なくなった。妙な関係で私は徳富兄弟にこの上なく愛せられるやうになった。殊に蘆花氏は私を子のやうに思うてくれたので、私は色々と思想上のことに就いても議論をした。
   二
 彼は真個の意味に於いての芸術家であった。そのためであったか、彼は随分世評を気にした。私のやうに世間の評判を少しも気にしない人間にとってはをかしいくらゐであった。彼は明治四十年頃の若さを何時も持ってゐた。私が、彼の自然的作品が非常に好きであると云ふと、彼は本当に喜んだ。彼は自分の庭の凡ての木に就いて色々面白いローマンスを私に物語ってくれた。全く子供のやうになって私を歓迎してくれるのが何時ものことであった。私は粕谷のこはれかかった萱葺の家を訪問することを何時も恐れた。彼は私に無理に食物を奨める癖があったからである。ありったけの果物と、ありったけの野菜を私にすすめた。あんなにして閉ぢ籠ってゐたけれども、新聞をよく読んでゐるものだから、世間の事情には実に詳しかった。作品に対しては実に厳格で、『富士』などは二年も前に書き上げてゐたにかかはらず、未だにこつこつ書き直してゐた。校正も自分一人でした。それを考へると、私のやうな大ざっぱな人間は文筆で飯を食ふ資格が無いと何時も考へる。
 彼は何時も支那服に似通ったぼてぼての着物を着てゆっくりした生活に浸ってゐた。家具類に対しては頗る無頓著で、雑然として部屋一面に取り散らしてゐた。或る人は粕谷の小屋を粕谷御殿と呼んだか、そこは御殿でも何でもなく、彼は実に貧乏臭く住んでゐた。生活様式は、畳の上に椅子と寝台を用ひてゐたやうであったが、再度の聖地旅行から後は百姓もあまりしなかったやうである。話題は彼の兄蘇峰氏のやうに豊かではなかった。蘇峰氏はイギリスの政界
の事情などは、日本の政界以上に詳しく知ってゐるが、蘆花氏には、そんな知識は勿論無かった。しかし、日本民族を愛する点に於いて、蘆花氏と蘇峰氏とどちらが強かったかと云へば、私は弟の方が感情に強かったやうに思ふ。『太平洋を中心として』の編輯の如きは全く蘆花氏の此の気持で編輯されたものであった。私は二三時間もそれに就いて蘆花氏と離れで議諭したことがあった。彼は詩人であっただけに、実に極端な議論を吐いた。それが子供らしくて、私には何時も面白かった。議論に疲れると、
「もう已めて置かうね、賀川君、見方の角度が違ふのだからね」
 と云ふのが何時ものことであった。

   三
 私は屡々彼を社会に連れ出して『新紀元』時代の若さを彼に与へようと努力してみた。さうすることが、彼の芸術家としての生命に新しい刺戟を与へることでもあると考へた為に。しかし彼はそれを忌み嫌った。彼は初めて私の『家庭科学大系』に「アダム、エバ論」を書くと云ふ約束をしてくれた。おそらく、彼自らの気持としては、私のやうな雑駁な生活をすることが、いかにも気持悪く考へられたものらしい。彼は、或る創作に専念し出すと、それを完成するまで、他念なくやり遂げる芸術的良心があったためであらう。私の誘惑に決して耳を貸さなかった。それで私も敢てそれを繰り返さなかった。彼は静かに、彼の家を取り囲む櫟林の精に聴き入って、武蔵野の自然に浸った。彼は自分の庭に生えてゐる一本の雑草すら刈り取ることを忌み嫌った。それほど彼は自然を好愛した。おそらく、愛子夫人の次に彼を慰めたものは、彼の家を取り巻くあの美しい雑木林と雑草であったであらう。

   四
 蘆花氏の宅を訪れる時、いつも必ず口癖のやうにきくのは、アダム、エバといふ言葉であった。彼はその言葉を詩的に用ひた。彼は男女二つを合して完全な人間になれることを私に主張した。最初のほど、私はその言葉を軽くうけ取ってゐたが、蘆花氏はそれを復活した人間の姿としてうけとってゐることに気がついて、いつもその言葉に頷いたものであった。彼はその長い煩悶と自己批判の後に、霊肉合致の新生命を、真裸のアダムとエバの中に発見した。彼の云ふアダムとエバは、創世記のアダムとエバではなくて、復活のキリストを見たアダムとエバであった。彼の煩悶を知らない人間には、蘆花氏の云ったアダム、エバの言葉の如きは、本当に無意味である。今日の時代があまりに宗教から遠ざかって行った為に、蘆花氏のターミノロジーは如何にも変に聞えるけれども、それは決して彼の哲学ではなくて、彼の体験がさうした気持に導いたのであった。
 新しきアダム、エバの結論に達した蘆花氏は、彼自らの武蔵野のエデンに於いては非常に幸福な生活を送ったやうであった。彼はうまいものを食ふ工夫も知ってゐたし、さう私のやうに月末の米代にも困るやうなことは無かった。しかし、女中はあまり寂しいので困ってゐたらしい。
 蘆花氏は、『富土』が完成する頃藁小屋を破壊して、洋式の建物を一棟造り、その屋根で星を研究するのだと私に家の設計の話まで語ってゐたが、たうとう家を改築しない前に、彼は彼の云ふ天の親爺の処に帰って行った。
 彼が植ゑた樫はもう直径一尺ばかりになって居る。『みみずのたはこと』に出てゐる石地蔵は相も変らず南向きに据ゑられて、武蔵野の春秋を楽しんでゐる。私のために書いてやると云った「アダム、エバ論」を彼は書かずに死んだ。彼は今静かに、彼が嘗って愛した櫟林の間に眠ってゐる。しかし。私は近年著しく発展して行く大東京の勢力がいつまでその櫟林を静かに美しく保つかを疑ふ。おそらく、ここ数年を出ないで、上高井戸村から千歳村にかけて厭なトタン張りの家が沢山建って行くことであらう。
 その厭なトタン屋根を見る前に、日本の大きな自然詩人は地上を去った。彼の葬式のある日に私は播州印南郡の村々を馳けずり廻って、既にくづれ落ちてしまった農村の美を、もう一度復活させようと声をからしてゐた。その日、私は日本最初の普選に村の無産党を支持してゐた。それは彼に対する私の最大の弔意であった。その日の私の演説は臨監の警官によって中止を命ぜられ、私たちの同志は、十数名警察に呼び出されて、取り調べをうけた。さうした瞬間に、私は、静かに眠る蘆花氏の柩が土に埋められることを記念せねばならなかった。
「賀川君、あまり沢山な仕事をしないで、もう少し楽にやりたまへ」
 さうした熱情の籠もった彼の忠告が、今なほ私の耳の底に残る。おそらく、彼が櫟林の中に眠っても、彼は私の無産運動を土の下から支持してくれてゐるであらう。私はそれを信じてゐる。