黎明15 ジョン・ラスキン

  ジョン・ラスキン

  世界の魂を動かす力

 嘗てラスキン大学を訪れたとき、私はこの貧相な建物のなかから、英国で最も多数の国会議員を送り出したといふ事実を顧みて、転た感慨に堪へないのであった。
 名はラスキン大学であるけれども、実は英国労働組合会議で幹部を養成する、半公共的な機関である。現にこの大学に学ぶ学生たちの大部分は、英国六百万の労働組合員のなかから選抜された人々である。そしてその当時、この大学の卒業生のうち二十七名が、国会議員であるといふことであった。
 私は狭い廊下の壁にかかってゐる粗末な額の前に佇んだ。それはラスキンが生前、自ら七千磅(約七万円)の金を投じてつくったセントジョーヂス土地組合の写真であった。
 私はその粗末な額の前に立って、思はず深い感慨に耽ったのであった。
 何故に英国の労働者たちは、その幹部養成所に、ラスキンといふ名をつけたのであらうか。
 方々の工業都市に行って見ると、たいていの労働者倶楽部は、ラスキン・ホールと呼ばれてゐる。ここで会合が開かれるばかりでなく、玉突が行はれ、ビールが飲まれる。――みんなラスキンの名において。
 何故であるか。
 彼の一生は世俗的な意味においては、全く失敗の連続であった。彼は二度恋愛をして、二度失恋した。二十九歳で結婚した彼は、六年後には妻君に逃げ出されてゐる。美術評論家としての名声は得たけれども、その社会思想はつひに時代に容れられなかった。父の遺産二百万円を投じてはじめた社会事業は、全くみじめな失敗に終り、僅かに博物館一つを形見として、死後には十数万円の借金さへのこした。
 それにも拘らず、彼はまだ生きてゐる。英国の労働者の胸のなかに、懐しい記憶となって生きてゐる。いや、全世界の人類の胸に、生々しい影響となって現れてゐる。
 何故であらうか。
 私はそれを考へて見たい。
「生命は金銭をもって買ふ能はず」
 ラスキンのその言葉は、当時の人々の嘲笑を買ったにも拘らず、今や全世界の人類の胸を動かす。暁鐘のやうな大音声となったのであるまいか。

  失恋から自然研究へ

「まあ、よくいらっしゃいました」
 さういって、いそいそと玄関の戸を開いたのは、母親のマーガレットであった。彼女は背の高い、美しい五十四歳の婦人であった。客は仏都巴里の酒商ドメックの一族であった。あとから、三人の娘たちが続く。
 これは息子のジョンにとっては、大事件であった。
 なぜなら、その瞬間、彼の眼と心とは、一番姉のアデールといふ、芳紀十五歳、黒眼がちな、スペイン型の美少女に、釘附けになったからである。
 率直に言へば、十七歳になる早熟な少年のジョンは、恋に捕はれたのだ。
 その晩、ラスキン一家――その時五十歳であった父、母、そしてジョンーーは、応接室に集まって、フランスの珍客を歓迎した。ジョンはアデールの傍につきっきりで、何とか彼女の歓心を得よう
と、下手糞なフランス語で、スペインの海軍の話や、フランスの教会の話をした。これは内気な彼にとっては、よほどの努力であったにちがひない。しかしアデールは、つんと取りすましてゐた。ジョンが熱心になればなるほど、彼女は冷やかになるやうにさへ思はれた。
 そして次の日も、また次のロも……。
 四日目に、アデールは、両親に連れられて、フランスに帰って行った。ジョンは凡てが失はれたやうに感じた。怖ろしい空虚だ。そして何といふ淋しさだ!
 先方は何とも思ってゐないのに、ただ一人身と心を焼くこの懊悩。――ジョンは自分自身が、哀れにさへなった。
 彼は急にフランス語の勉強をはじめた。アデールに手紙を書くためだ。だが、彼の情熱をこめた、しかし夢のやうな手紙は、自惚れた美しい巴里娘の嘲笑を買ふだけであった。
 両親は、この一途に思ひつめた息子の心を、何とかして外に転換させたいと思った。シャロットといふ、十六歳の、優しい、美しい薄いそばかすのある娘を連れて来た。が、それも無駄だった。彼にはどうしても、アデールが忘れられなかった。
 これが彼の最初の、そして長い失恋であった。
「彼女は四日で私を白燼(はくじん)にしてしまった。そしてその崇りは四年の間つづいた」
 と、ラスキン自らが告白してゐる。そして四年後に来たものは、アデールが、金持で立派なスポーツマンの男爵と結婚するといふ報せだった。
 つひに来るべき日が来たのだ。恋人の結婚! これが最後の鉄鎚である。
 そしてこの運命の鉄鎚で、があんと一つ脳天をやられたとき、ラスキンは一休どうしたか。
 そこに人生の岐路がある。
 およそ不運ほど、人を堕落させるものはないと同じく、不運ほど人を偉大にするものはない。ラスキンはその後者の道をとった。彼は運命の鉄鎚を受けたとき、ぴょこんと凹むかはりに、ぴいんと撥ねかへった。
 そこにラスキンの偉大さがある。
 そして彼は、まっしぐらに、自已の使命へと突き進んだ。事実、彼が不朽の名著『近代画家』の第一巻を公にしたのは、それからたった四年の後、彼が二十四歳のときであった。
 若し彼がこのとき、失恋の深い傷手を負はなかったならば、彼もまた父のあとをういで、文学趣味のある冨んだ一酒商として終ったかも知れぬ。運命は彼に不幸を与へて、その天才に蹄を加へたのであった。

  自然美への指導者

「ジョンは何をするだらうか?」
 これが牛津(オックスフォード)大学生徒たちの疑問であり、期待であった。
 事実、彼は異常の天分に恵まれてゐた。五歳にしてすでに図書館から書物を借り出して読み、九歳にしてポープ風の立派な詩を書き、新聞や雑誌に投書したり、論文を害いていたりしてゐた。それに、富家の一人息子に生れた彼は、富める両親に連れられて、英国を初めヨーロッパの各地を幾回となく遍歴し、個人教授を経て学校教育に入っても自由にその天分をのばすことができた。二十歳にして早くもニゥデイゲート賞を得、シェルドニアン劇場における当選詩の朗読は、すばらしい評判を生んだ。
 ただ彼は病身であった。そしてまだ、自分は何をなすべきか、それを知らなかった。天才にありがちな欠点だ。
 しかるに。今や、この迷へる天才に、瞭然と目標を指し示す事件が起きた。それは失恋である。失恋の鉄鎚は、彼の人生と自然を観る眼を、かっと見開かしめた。
 その前から彼は、悶々の情をやるために、幾度も海外に旅行してゐる。アルプスの峰を攀ぢて。落日の偉観に胸を打たれたこともある。ヴェニスに遊んで、油のやうに澱んだ水を愛したこともある。殊にアルプス登攀に於いて、山の姿をスケッしたり、その地層を研究したり、かうした間に醞醸(うんじょう)される山の感化力は、彼の精神生活を引き立てるのであった。
 そして今や、失恋の鉄鎚とともに、それらの記憶が、はっきりと甦ったのだ。
「人の情は美しい。しかし、それより深いのは自然の美だ。人間は偉大である。しかしそれより崇高なのは自然である」
 さうして彼の著したのが『近代両家』五巻である。それを完成するのに、彼は十七年の日子をつひやした。
 彼が牛津大学を卒業して直ちに発表した『近代画家(モダン・ペインターズ)』の第一巻は、大部分、自然画家ターナーの擁護論であるといはれる。しかし当時の人々が、強く胸を打たれたのは、自然そのものに深く惹きつけられた彼の自然好愛の告白である。彼の自然研究は、巻を追ふに従って、強く且つ深くなっていった。
 私は告白する。誰よりも深く私に自然研究を教へてくれたのは、ラスキンの『近代画家』の第一巻と第四巻であった。すべての山と山脈が、無限曲線によって飾られてゐることを。私に教へてくれたのはラスキンであった。それから、雲。水、港、光――いかにして、それらの自然美を研究するか。それに目を開けてくれたのもラスキンであった。
 況んや当時の世界は、やうやく工場の雑音や、煙突の煤煙に悩まされ始めた時代であったので、ラスキンの感化がどんなに大きかったかは、想像の外である。沙漠の夕立のやうに、ラスキンの言葉は、当時の人々の胸に吸ひこまれた。
 印度の指導者ガンヂーも、ラスキントルストイに負ふところが最も多かったと、自ら語ってゐる。ラスキンは確かに、東洋と西洋の多くの魂に、自然を見よ、と指差してくれたのであった。

  文明の精神的基礎

 時雨がやって来た。
 ラスキンは雨を避けるため、急いで教会堂のポーチへ逃げこんだ。しかし、南国イタリーの時雨は相当に激しく。また長かった。
 屋根に落ちた雨は、滝のやうに軒を伝って流れてゐた。
 はっと気がついて見ると、天井裏から落ちて来る雫の下には、百万円出しても買へない、文芸復興期の画家チントレットの絵があるではないか。
「これは大変だ。折角の名画が台なしになってしまふ。どうしたんだらう? 屋根がどうかなってゐるんだな――」
 ラスキンは、翌日その寺院を訪問して、詳かに理由を述べて、屋根裏を調べさせて貰った。そしてそれは、この会堂をつくった職工が、手間を省くために、誤魔化してゐたためであることを発見した。
 その時彼は、一つの真理に衝き当った。
「建築はただ単に物質的材料だけで出来るものではない。そこに人格的要素を必要とする」
 ラスキンは、それを更に深く研究した結果、つひに『建築の七燈』といふ本を書いた。
「建築には七つの道徳的要素を必要とする。第一は真理だ。それから美だ。力だ。犠牲だ。服従だ。労働だ。そして記憶だ」
『建築の七燈』には、この主張が、美しい文章で。力強く提唱されてゐる。
 この思想をさらに大きく発展させ、もっと事実に基いて実証したものが、一八五一年に発表した『ヴェニスの石』である。そこで彼は、一種の唯心史観ともいふべき思想を展開さしてゐる。
 ヴェニスの建築物は、およそ三期に分つことかできる。第一期は、十字軍の大輸送に関係してしこたま儲けたヴェニスの商人たち
が、サン・トルコ寺院のやうな、ビザンチン建築を建てた時代。そ
れから十三世紀にはひって、統領(ドーチ)宮殿のやうな美しいゴシック建築を完成した時代。それが宗教心の衰へと共に次第に堕落して、快楽本位のルネッサンス建築時代となった。
 ラスキンはその著『ヴェニスの石』において、第一期のビザンチ
ン建築が玉のやうに美しいことを激賞してゐる。しかしその様式は、結局、ギリシヤの模倣に過ぎない。ヴェニスの工人だちが、真実の創作的な美しい建築をのこしたのは、第二期のゴシック建築時代に入ってからである。
 ゴシック時代の建築を観ると、名も知れない工人たちが、自由勝手に彫刻したり、柱を飾ったりして、めいめい勝手なことをしてゐる。それでゐて少しも全体の狂ひがなく、却って全体としては、実に優美な典雅な趣きをそなへてゐる。そこにゴシックがあった。
 何故であるか?
 それは彼等が、めいめい勝手な工作をしてゐるやうであって、その精神には、当時の民衆の胸のなかに澎湃として興りつつあった強烈な信仰心が、一貫して流れてゐたからである。実に信仰なくしては、一つの建築さへ完成できない。
 しかるにこの力強い民衆の信仰心は、ルネッサンス時代に入って、漸く衰退して来た。そのためにこの時代の建築は、結局において模倣であり、奉仕的精神の籠らぬ、労力を省いた、力の弱い、美に欠けた誤魔化しに堕してしまったのである。
 建築とは、決して石やセメントではない。その註文者、設計者、工作者の精神的態度が、そのまま石に刻みっけられたもの、それが建築なのである。アッシジの聖者フランシスのやうな愛と犠牲の精神から生れるのでなくては、いくら黄金の山を積んでも、決してヴェニスゴシック建築のやうな、美しい建物をつくり出すことはできないのである。
 そこでラスキンは、一つの大きな社会思想に到著した。
 たった一つの建築でさへ、さうであるとするならば、立派な社会、立派な文化といふものか、どうして、民衆の宗教的、道徳的基礎無しに、建設できようぞ。
 マルクスは、「およそ文明と道徳との基礎工事は、物質的生産の形式にある」と言ったが、ラスキンはそれと反対に「民衆の宗教的、道徳的基礎工事ができて、はじめて健全な文化が築かれるのである」と主張した。
 マルクス唯物史観に対して。私はこれを仮にラスキンの唯心史観と名づけよう。そしてこの唯心史観は、後に英国の労働組合に採用せられ、つひに組合幹部を養成するところの、いはば彼等の社会運動の士官学校に、ラスキン大学といふ名を附けられるに到ったのである。

  不幸な結婚

 美術評論家として出発したラスキンが、かうして次第に、社会思想家、それから社会改良家と、転向してゆくやうになったのは、一つは時代の圧力でもあったが、も一つは彼の不幸なる結婚生活のせ
ゐでもあった。
 ラスキンの名声が高まるにつれ、両親は愛する一人息子が、何時までも独身生活をつづけてゐることに、一種のもどかしさを感じはじめた。
「ね、ジョンや、お前、もうそろそろ身を固めてくれぬと困るね」
 母親は口癖のやうにかき口説いた。が、この失恋の子の返事は何時も淋しかった。
「だって、お母さん、僕はまだ結婚する気にはなれないんです」
「ぢゃア、私たちがいい人を探して来たら、どう? 結婚してくれて?」
「それも人によりけりですね」
 すると傍にゐた父が口を挾んだ。
「しかし、ジョン、お父さんも、六十を越えると、初孫を抱きたくなるもんだよ。何とか考へてくれなくちゃ――」
 両親から、かう頼むやうにせがまれると、元来心の優しいラスキンは、動かされないではゐなかった。父は一生の苦闘によって、二十万磅(約二百万円)からの財産をつくってゐた。金銭に不自由はなし、息子の名声はあがるし――あとはただ結婚しさへすれば、両親を完全に幸福にさせられるのだ。
(恋人のアデールは人妻となってしまった。どうせ破れた恋に空虚な心を、みたすことができないならば、老いた両親を喜ばすために、結婚してあげてもいいぢゃないか)
 さう思ふやうになった。
 そして両親のすすめにより、ユーフィミア・シャルマーズ・グレイといふ婦人と結婚したのは、一八四八年。彼の二十九歳のときであった。
 しかしこの結婚は、最初から呪はれてゐた。
 その新婚旅行の日、はじめから肺病の気味のあったラスキンは、ソリスベリー寺院をスケッチしてゐるうち、突然血を吐いて、結婚したばかりのユーフィミアを吃驚させた。
 一方ラスキンも、その妻を心から抱擁する気には、どうしてもなれなかった。
 一体彼女は、花のやうな美人ではあったけれども、何時もお寺に行ってスケッチしたり、ぢっと物を考へてゐるやうな、暗い気分は好きになれなかった。それよりも彼女の好きなのは、華やかな社交界であり、派手な舞踏会であった。そしてヴェニスに滞在中でも、彼女は夫を放っといて、一人で舞踏会に飛び出して行くやうな日が続いた。
「なアに、ラスキンさんは、建築物と結婚したんですよ。あんな人放っときなさいよ」
 そんなことを言って。彼女をけしかける人さへあった。それに、社交界におけるラスキン夫人の評判は、とても素晴らしいものであった。彼女はそれほど美しかったのだ。彼女の行くところ、花を撒いて待ってゐる大勢の若者があった。それだのに。肺患に苫しむラスキンは、何時も暗い心を抱いて、自然と建築の奥に潜める真理を、ぢっと眺め暮してゐる。
 かうして二人の心は、次第に離れていった。
 それは世にも不自然な結婚生活であったと言はねはならぬ。二人
は同じ軒の下に住みながら。別々の生活をしてゐたのだ。
 そして到頭、結婚してから六年の後に、最後の破綻が来た。或る朝彼は、妻の室の鏡台の前に行って見ると、頭髪ピンに、簡単な有り来りの書置きを突き差したまま、家出してゐる妻を見出したのである。
 それから間もなく、二人は裁判を仰いで、正式の離婚をした。しかもこの別れた妻が、大急ぎで再婚した相手といふのが、人もあらうに、ラスキンの親友であり、またその擁護者となってゐた、自然画家のミレース (後に王室美術院長となり、今に不朽の名をのこしてゐるジョン・エヴァレット・ミレース)であらうとは!
 慎しみ深いラスキンは、そのまの消息について、少しも書いてゐない。しかし彼の柔かい心が、少からず傷いたことは、想像にあまりある。そしてそこに彼が美術評諭家から、次第に社会思想家へと転向した心の動きを推察することができる。
 実に。不幸によってますます偉大となるのは、すべての巨人に共通する資格である。最初の失恋が、無二の美術評論寥ラスキンを生めるごとく、不幸な結婚生活とその破綻が、偉大なる社会思想家ラスキンを生む母となったのである。

  新しき村の失敗

 当時の欧洲は、山雨来らんと欲して風楼に満つの概があった。
 彼が結婚した年(一八四八年)、すでに倫敦では、百万人の労働者が、議会に請願書を持ちこむといって、大騒ぎをしてゐた。フランスでは革命が起って、その影響は電波のやうに、全世界に拡がっていった。ドイツのマルクスは、共産党宣言を書いて、資本主義文明を呪ってゐた。イギリスでは、普通選挙運動が暴圧されて、民衆が湧き立ってゐた。
 しかしこの場合、ラスキンは、民衆の言ひ分がそのまま正義であるとは、即断することができなかった。
 また、物質的生産の形式が、文明のすべてを決定するといふマルクス主義にも、直ぐには賛成できなかった。
「人間の良心を変革しないで置いて、ただ社会制度だけの変革で、理想の社会は決して現出するものではない」
 かうした社会思想をもつラスキンが、セント・ジョーヂス土地組合といふ『新しい村』の運動に、手を染めるやうになったのは、不思議でもない。
 彼はそれに私財全部を投げ出して悔いなかった。
「こんな風にしてね、我々は、土と、労働と。自然と、美とを調和した理想の世界をつくるんだよ」
 彼は素晴らしい意気込みで。その仕事にとりかかった。
 だが。傷ましいかな、それは、醜い現世に実現すべく、あまりに美しい夢に過ぎなかったのである。
 機械生産を悪魔のやうに憎んだ彼は、現代をもう一度、中世の手工業時代に返さうとした。殼物を運ぶための動物の使用をさへ禁じた。そんな時代逆行が果して出来ることだらうか。それに彼は、かうした農業実行組合が、どうしても持たねばならぬところの消費組合及び消費市場との連絡を、完全に無視してゐた。
 要するにラスキンは、芸術的に出発して、それを社会科学的に組織することを忘れてゐたのである。
 さうして彼の『新しい村』は、完全に潰れてしまったのである。
 この頃から彼は、プラトン的な理想国をイギリスに打ち建てようと夢みてゐた。彼の理想は、平等ではなかった。むしろ反対に、賢人の治める賢人国であった。彼は執政官を認め、王者を賛美した。しかし一方、資本主義の金儲中心の社会と、利子搾取の制度には極力反対した。
 彼はかうした社会思想を、あらゆる機会に、講壇の上から獅子吼し、著書や論文によって唱道した。しかし世界は、彼の思想に叛逆した。彼の思想の或る部分は、あまりに矯激だと言って、読書階級から爪弾きされた。そして他の部分は、あまりに時代おくれだと言って、保守的なオックスフォードの大学生でさへ、茶番化するやうになった。
 ああ。彼が初めてオックスフォード大学に美術講座を設け、その最初の教壇に立ったときの、あの圧倒的な人気はどこへ行ったのだ。そのときは聴講者が教室に溢れて、止むなく劇場で講義を進めなくてはならなかったほどであっだのに!
 美術評論家としてのラスキンは、まさに時代の寵児であった。しかし社会思想家としての彼は、世界の嗤ひ者となった。

  淋しき巨人の死

 傷ましき巨人の晩年である。
 その全財産と全精力を注いだ事業は失敗し、その社会思想は世に容れられず、旭日昇天の人気は地に墜ちた。しかも彼はそのころ、第二の失恋によって、悩まなければならなかったのである。
 それはローズ・ラ・トーシュといふ、彼とは三十も年齢のちがふ美少女であった。ラスキンは彼女を、十一歳のときから愛してゐた。しかも躍る心を抑へつつ、彼女が年頃になるのを待って求婚して見ると、中年の男の恋愛に対して、彼女は冷淡であった。それでも、彼は更に六年待った。しかも六年後に、結局彼の得たものは――
 拒絶!
 ああ、十七歳にして最初の失恋をした彼が、中年を空虚な結婚とその破綻に過ごし、さらにもう一度、五十歳にして、同じ失恋の苦い経験を嘗めなければならぬとは!
 加ふるに彼はそのころ、ホイスラーとの訴訟事件に悩まされてゐた。印象派で有名なホイスラーの悪口を、あまり辛辣に書いたといふので、法廷に訴へられたのだ。この事件は、結局、賠償金を「一銭」支払ふべしといふ判決で、結末を告げたのであるが、ホイスラーはこの一銭をとるために、約四千円を費したといふことである。法廷で負けた方のラスキンも、弁護料として同じほどの額を費してゐる。
 だが、それよりも悲しいのは、この訴訟事件が続いてゐる間、ラスキンが全く精神病を患って、悶え続けなければならぬことであった。
 彼の社会思想に対する社会の迫害、晩年の恋愛のいたましい破滅、それから煩はしい訴訟事件――そんなものが、積り積もって、彼の優しい心を責めさいなんだのだ。彼はそれらのものとよく戦っ
た。が、到頭、それらすべてのものと訣別する日が来た。
 一九〇〇年、長く病んでゐたラスキンは、ブランドウッドの湖畔
において、最後の息をひきとっだ。享年満七十一歳。
 かうして十九世紀は、つひに自然と美の予言者を、次の世界に送
りこんだのである。
 そして見よ! そのあとに如何なる世界が現出したか。
 林立せる煙突から吐きだす煤煙である。牢獄のやうな工場から起る雑音である。それとともに、地球の表面からは、美しい森と美しい人間の顔が消え去った。醜く肥えふとれる資本家と、憎悪にみちた労働者群の眼――失業者は路上に溢れ、自殺者は日に増し、赤旗と流血の騒ぎが、毎日の新聞記事を陰惨に彩る。
 ああ、敗れたるものは果して誰ぞ。
 物質と機械との文明は、完全にラスキンを地に叩きつけたやうに見えた。だが、今やこの偉大なる予言者の言葉は、新しい響を以て、人類の胸を揺りはじめたではないか。
 敗れたるものが、つひに起ち上る日が来たのだ。