黎明18 現代人と信仰

  現代人と信仰

  神に孕まれたるもの

 あんまり馴れ易いわれわれの心は、宇宙の驚異に驚かなくなってしまふ。そして宇宙の可能性に対する信仰よりか、決定的の運命観が人を支配する。彼等は貝殼にはひって天が見えないといふ。天がないのではない。天を見ないのである。
 ここに、母の胎に孕まれてゐる赤ん坊があるとする。その赤ん坊が、孕まれてからもう間近く十ヶ月になるけれども、母の顔は一度も見たことがない。われわれが神を見ないといふのも、その赤ん坊と母の関係にひとしい。母の胎は赤ん坊にとっての宇宙であり、赤ん坊の不可知論を生む理由にもなる。しかしそれだけで、赤ん坊が母の存在を疑ふなら、その赤ん坊は妙な赤ん坊であるといはなければならぬ。
 今日唯物論者が、人間の眼の感覚にうつる物だけを見て、神は存在せぬといふことは、母の胎内の赤ん坊が、胎壁に触れて母がないといふのにひといし。母がないのではない。現在赤ん坊が生きてゐることは母のある証拠ではないか。同様に宇宙に神がないのではない。われわれが生きてゐるのはその証拠ではないか。胎内の赤ん坊はへその緒によって母にっながってゐる如く、われわれ人間は生命によって神につながってゐる。生命を疑ふものは疑へ。それは人間以上の力がわれわれにそそぎ込んで来る新しい力である。その力は感ずることによってのみ認識せられるのであって、概念によって持ちきたらされるものではない。宇宙の神の場合においても同様である。神は直観によって知り得るものであって、概念によって組み立てられたものは、その影に過ぎない。
 私は不思議な生命を感ずるが故に宇宙に神があることを信ずる。

  物質は神の言葉である

 現代人には悪いくせがあって、物質とエネルギーと、物質と生命と、物質と変化性と、物質と生長性と、物質と選択性と、物質と法則性と、物質と目的性とを混同するくせがある。
 近代物理学が、漸くこれらの点の区別をし出したことはうれしいことである。新物理学は物質がエネルギーから成り立ってゐて、人間の感覚に対して、物として映るのだと教へてくれる。宇宙の本体は物質ではない。それは力であり、生命であり、変化性を持つものであり、生長性と淘汰性と、法則と目的をもって力を動かしてゐるものである。
 宇宙を物の集合休のやうにしか見ない不徹底な人間には、生命と、力と、変化と、生長と、選択と、法則と、目的が統一なくしてばらばらに存在するものの如く見える。それはわれわれがあまりに限られた局部的な生活をしてゐるからである。しかし局部的な生活をしてゐるものでも、内に省みれば意識は一つしか持ってゐない。その意識のうちには、エネルギーと目的と、変化と法則と、選択と生長性が、生命といふものの中に完全に統一体を組織してゐる。つまり一つの焦点を持ってゐる訳である。そしてこの統一的意識を我我は心と呼んでゐる。この心の出現が可能な世界には。必ず大宇宙に心の源があるに違ひないと私は思ふ。それを神と呼ぶに何の誤謬があらうぞ。
 物質の世界を見る時に、私にとってはそれは不思議な神の言葉であるとしか考へられない。自然は神の衣であり、神の衣裳に縫ひつけられた裾模様であると私かいふのは、かうした意味である。私はどうしてこんな不思議な世界に住んでゐるだらうか? 私が感じるやうに、なぜ世界の人は感じないかと自分ながら不思議に思ってゐる。
  宗教と道徳との差

 人間は多くの場合、一日に三つの生活を繰返してゐる。八時問は眠って無意識状態に陥り、八時問は本能的に生活して半意識状態を続け、残りの八時間を目的ある労作に消費してゐるのだ。
 宗教とは、この無意識及び半意識の生活から全意識の生活によみがへって、宇宙の目的に添ふ生活をすることである。宇宙の目的は神のみしか知らない。それでわれわれは、神の目的を学んで自分の小さい生活を神にゆだねようとしてゐるのである。
 この宇宙の目的を離れた人間の心の生活ほど悲惨なものはない。すべての倫理的悪は、この人間個々の我儘から起ってゐる。階級闘争本位の生活がしばしば社会を誤るのも、ここに原因がある。彼等は宇宙の目的を根本にせずして神を否定し、宇宙全体の幸福を忘れ、時には極端な利己的団体や自己の心から出発して、社会全体の幸福を忘れることがある。
 この間違ひのために社会に混乱が起る。昔のローマの譬ではないけれども、人体において、足が階級意識から頭を排斥した場合どうなるだらうか。われわれは先づ全体意識に目覚める必要がある。全身をめぐる血は全体のために犠牲の生活を続けてゐる。キリストが指差した血の贖罪愛といふのは、全くかうした全体意識――否、宇宙意識から湧いたものであると考へてよい。かうした意味において、宇宙の神の意識にはひらなければ、最も高い贖罪愛の道徳意識にわれわれははひれない訳である。
 道徳は。人間の世界だけしか考へない。敵をも愛し、罪人をも救ふ愛は道徳から生れない。そこから先に宇宙全体の神意識から生れるのである。日本は今宇宙を忘れて日本だけしか考へない。それで日本人には悲しいかな、この贖罪愛の秘密がわからない。

  知識と信仰

 知識があれば信仰はいらぬといふ人がある。これらの人々は、過去があれば未来はいらぬといふだらうか。決定があれば可能性はなくてもよいといふのだらうか。
 人間の生活において知識は常に過去の経験から与へられてゐる。そして未来はその過去の傾向の延長に加へて、新しい可能性が含まれてゐる。その傾向と可能性は、まだ知識の範囲内にはひってゐない。『明日』はまだ無い。しかしまだない『明日』が、傾向と可能性によって来る『だらう』との信仰を持ち得る。信仰の世界はこの可能性の世界を意味してゐる。それを宗教では奇蹟の可能性として信じて来た。奇蹟を笑ってはならない。それは人間を通しての可能性を意味してゐるのだ。いや、目的の世界と法則の世界が、決して衝突しないことを意味してゐるのだ。傾向と可能性が衝突してゐないことを意味してゐるのだ。いや、法則と決定すら、可能性の世界から見れば、宇宙にさういふ法則を作る可能性があったから出来たと信ずるほかはない。
 可能性の世界を見れば、世界は実に不思議である。物質の法則と信ぜられるものすら世界に可能になったのだ。この事実を見ただけで、われわれは宇宙の神秘に昏倒する。私は次の世界に行った時、宇宙の神に、私が地球の表面で見た不思議な物としての現象の世界と法則の世界を報告しようと思ってゐる。

  将棋の駒

 運命と自由を、私は将棋の駒の使ひ方にたとへよう。歩は前方に一つしか行けない。香車は一本道にしか行けない。桂馬は前方に一つ、そして斜に一つ。銀は両脇と後へ真直ぐによれず、角は斜にしか飛べない。これが定められた運命である。この変化性には階級があり、規則かがあ、決定せられた範囲がある。王といへども飛車のやうに飛ぶことは出来ない。しかし飛車は角のやうに斜に動けぬ。
 決定論者はかうした限定の世界だけを見る。しかし、歩でも前進する可能性を持ち、敵の陣地にはひれば、金将と同じ変化の可能性を授けられるから、その使命たるや実に重大である。名人は歩だけを持って詰め手を知ってゐる。決定論的にのみ人生を見て、人生を機械視するものは将棋の駒を見るがよい。駒は決定せられた領域を限定されつつも、なほ使命に生きて活躍するではないか。動かぬ飛車より、動く歩の方がどれだけ多くの使命を持ってゐるか知れない。歩であることを悲観してはならない。われわれは決定に泣く前に、われわれの使命に生きなければならぬ。歩の力量しか与へられてゐない者も、歩だけの孤立した生活を考へないで、全体の局面と聯絡さして自分を考へられる。
 使命といふものは、常に全体から割り出された言葉である。自己
中心に考へる場合に、世界は限界的に決定せられたものであり、全体的に見た場合に、その決定的個性も大きな使命を持ってゐることを忘れてはならぬ。将棋で桂馬ほど偏した決定を持ってゐるものはない。しかしまた桂馬ほど重宝な駒もない。決定が使命であることを意識しようとするものは、桂馬を見るがよい。近世に決定論が擡頭し、人類の使命を忘れるものが多いのは宇宙全体の目的――即ち神の目的を忘れたからである。

  不思議な世界

 神の意識が内に目醍める。気がついてみれば、私の存在も、宇宙の存在も、不思議で不思議で仕方がない。
 私は第一に、自分の意識に制限のあることに気がつく。第二に、その意識が、だんだん広く、高く、深くなることを意識する。さうやって拡がってゆく私の意識の限界に、理窟ではなく、私がいかに詰らないものであるかといふことを直覚させられる。蝋燭の先に焔が燃えてゐるやうに、『私』といふものは、肉体の先に、ちょっぴり点った燈火である。その不思議な世界に私は住んでゐる。その意識の世界には。神と人間が両側から覗き込んでゐる。その意識の世界に、過去と現在と未来が不思議に畳み込まれてゐる。意識ほど不思議なものはない。
 宗教は意識の運動である。われわれが神を意識し、神と共に在り、神の使命を意識して活動するところに聖霊の生活が始まる。
 どう考へても、限りある私が、限りなく永遠と絶対を意識し得ることが不思議でたまらない。木も、草も、土も、雨も、太陽も、私の身体の一部分であることを私は意識する。それにも拘らず、私はそのすべてを親しく知ることが出来る。大宇宙は私の魂の内容を形作る。それがまた神秘である。なぜ私はこんな不思識な世界に生れ出たらうか? 私は近頃そればかり考へてゐる。