黎明19 『死線を越えて』を書いた動機

  『死線を越えて』を書いた動機

 H様――
死線を越えて』を書いた動機を話せとの御言葉ですが、困ってしまひました。明治四十年の五月だったと思ひます――さうです。もう丁度二十年も前になりますね、私が肺病で明石の病院から三河蒲郡の漁師の離れに移った頃、独りぽっちであまり淋しいものですから、私は小説を毎日書き綴ったのでした。誰も訪ねてくれる人は無し、知ってゐる人と云ふのは村に誰も無いものですから、幻の中で過去の人間を小説として想ひ浮べてみたのです。さうでした、その前の年だったと記憶します。私は小説が書きたかったので、古雑誌の上に小説を書き綴ったことがありました。あまり貧乏で原稿用紙が買へなかったものですから、古雑誌を原稿用紙代りに使用したのでした。そんなに私が小説を書きたかった理由は、私の小さい胸に、過去の悲しい経験があまりに深刻に響いたことと、私が宗教的になって行くことに依って非常に気持が変って来たことを、どうしても小説体に書きたかったからです。書き上げた小説を、私は島崎藤村先生に一度見て頂いたことがありました。すると先生は。丁寧
な手紙を添へて、数年間筐底に横へて自分がよく判るやうになってから世間に発表せよと云はれたのでした。
 その後肺病はだんだんよくなって、私は貧民窟に入りました。それから十三年経ちました。十三年目に改造社の山本実彦氏が、貧民窟の私の事務所にやって来て、その小説を出さうぢやないか、と云はれたので、私は、『死線を越えて』上巻の後の三分の一を新しく書き加へたのでした。その時に。前の三分の二の文章があまりにごつごつしてゐて拙いと思ったのですが、妙なもので、一つ直さうと思へば、全部直さなければならなくなるし、十三年後の私の筆は、よほど昔よりは上手になってゐるやうでしたけれども、何だか血を喀いた頃に書いた物は、ほんとに厳粛で、その頃の私の気持が最も真面目に出てゐるものですから、私は文章よりか気持を取りたいと思って、文章の拙いことを全く見逃すことにして、厳粛な血を喀いた時の気持を全部保存することにしたのでした。そのために『死線を越えて』上巻の前半には実にごつごつした所もありますが、加筆を許さない強い調子が残ってゐることも。また事実であります。
 モデルのことですか? それは私の周囲の人々に聞いて下さい。私の心の生活をあれに書かうとした時に、モデルに就いては云へない多くの事情があるのです。
 何時かも有島武郎氏が云ってゐたやうに、小説は小説であるけれども、事実以上の真実さがあるものださうです。私も有馬君の流儀で、このあたりは許して頂きませう。
 私は、あの小説を必ずしも成功した小説だとは思ひません。それが雑誌『改造』に出た時に。あまり拙いので自分ながらはらはらしました。ですから、本になった時にあんなによく売れたのを、自分ながらも驚いたのでした。けれども、今になって考へてみると、読者はやはり私か考へた通り、拙い文章を見逃してくれて、私が書かうと思った心の歴史――つまり心持の変り方――を全体として読んでくれたのだと思って感謝してゐるのです。私はあの本で、文章の拙いことを読まないで、心持の変って行く順序を読んで下さる方は、私の最もよき友達であると愛読者諸君にいつも感謝してゐるのです。それと共に私は、あの本を読まれた人の前には頭が上らぬやうな気がするのです。それと云ふのも、あの拙い文章を辛抱して読んでくれ、その上私の心の生活を全部知り抜いた読者は、預言者のやうに私を批判する力を持ってゐるのであると、いつも思ふからです。