黎明23 無人島の王者

  無人島の王者

『苦心三十年の結晶、癩の予防注射愈々完成の途ヘ!』といふ標題で、過日新聞紙上に報ぜられた、国立癩療養所長光田健輔氏の偉業は、その信念の博大高邁の点に於いて、その研究心の不撓不屈な点に於いて、私か最も敬服するところ、私が世に絶賞推薦したいところである。
 知る人も数多いことだらうが、この光田氏は前村山全生病院の院長であった。その後、岡山県邑久郡長島の国立癩療養所長に転ぜられた。名をきいただけで世人は面を背ける、不幸な天刑病者に半生を捧げた光田氏の博愛心は、実に偉大な人類愛の求道者として、特筆大書さるべきものであるが、ここでは氏の絶大なる事業の一端を紹介するにとどめよう。
 光田氏のゐられる岡山県の長島といふ島は、周囲七里、実に風光明媚な瀬戸内海の一小島である。私の近著『東雲は瞬く』の中でも、氏の本名と共にその風景が描写してあるが、氏がこの小鳥を発見するまでに払った苦心、更に発見後の苦心は並大抵のものではなかった。
 光田氏はどうにかして適当な癩療良地を発見せんものと、常々苦慮惨憺してゐられた。
 ある時は、遠い小笠原の海まで探検にゆき、ある時は北海道、台湾の涯まで探し求められた。そして遂に発見したのが、この長島である。
 風光といひ位置といひ、申分のない島ではあるが、光田氏がこの島に癩病院を建設するといふ話をきくと、近海の住民の反対は凄じいものがあった。氏は今までも幾度か、せっかく発見した島を、涙を呑んで放棄したことがあった。
 しかしこの度は断乎として所信に邁進した。
 氏が発見した当時の長島は。完全な無人島であった。氏はそこへ千百人の患者を収容する計画を立て、先づ十坪住宅を一戸宛五百円の見当で、多数建てることから着手した。
 この住宅は、患者の財力によって、無料又は有料(十五円)で貸す計画だったが、着手稹々(そうそう)に資金の不足に悩んだ。
 政府の補助金もあるにはあるが、これはあまりに小額である。そこで、氏は同志を募って、資金集めに狂奔された。
 この時にもよく氏の真面目は発揮されたのであるが、理想家や信仰家の中には往々実行力や経済観念に乏しい人がある。いや、むしろそれが多過ぎて、立派な理想も空想に終ることが多い。しかるに、光田氏はさうでない。
 氏は信念の人、研究の人であると同心に、実に稀なる事業経営家でもあった。その事は、以後設立された愛生園の経営などを見てもはっきり分るのであるが、実に敬服せざるを得ない。
 氏が苦心の末設立したこの愛生園を少し紹介しよう。愛生園は、職業別の自治的部落制厦によって成り立ってゐる。
 何しろ千余人の患者だから、中には大工もゐれば呉服屋もゐる。それらを職業別に統制し、園長自ら命令を出す。畠は勿論耕すし、牛馬の飼育、家屋の建築、すべて造作なく出来る制度になってゐる。かういふ制度を作り、この統制がうまく行くやうになったので、今度は、この部落内に氏は消費組合を作って、労働切符を発行した。勿論、これは貨幣に附著し癩菌が、島の外に散布する危険を防ぐためで、切符は銅で作り、これが貨幣の代用をするのである。
 研究人としての氏には、驚くべき問題が多々ある。さきには、アジェクトミー両方を患者に施して成功した。これは輸精管を切断する治療で、これによって、患者は、病児を生んで癩菌を次代へ伝へる憂ひがなく、自由に結婚しうることになったのである。
 最近の氏の偉大な研究は、癩ワクチンによる予防注射の完成である。
 最初、氏は、人間にはすべて癩に対する或る程度の抵抗力(即ち免疫性)があり、なほこの免疫性は、徴菌との適当な接触によって、一層強いものになるといふ医学上の重大な事実を発見した。この発見はすでに遠い過去の事で、当時の学界を驚かせたものだが、爾来、三十年の長年月に亙って、氏は懸命にこれが完成に没頭し尽した。いかなる学者が研究しても究めることの出来なかった癩ワクチンを。光田氏がこの度発見したのである。この大発見が人類にもたらす福音の偉大さは云ふに及ばないか。発見者光田氏はまだ博士にもならない。もとより氏は学位など眼中にないのであるが、氏の弟子の中から、もう三十人を超える医博を出してゐるのは、ちょっと面白い話ではなからうか。
 患者の施療に当る時の氏の慈愛、努力、真摯、博愛は、正に神の姿である。氏が、全島民から慈父と仰がれてゐるのも、少しもふしぎな事ではない。
 最後に、今一人私は世に推賞したい人がある。
 それは光田氏の令閨である。令閏は前台湾総督上山満之進氏の令妹であるが、光田氏の偉業の半ばは、令閨の力に負ふといっても過言ではあるまい。
 人類の悩みを悩みとし、全生涯を天刑病者の柱として投げ出された光田氏夫妻ほどの人は、滅多に見ることが出来まい。