黎明42 常識による環境の支配

  常識による環境の支配

  知識の限度

 引力の発見者ニュートンは、われわれの知識を、太洋を前にして、岸辺に池を掘る子供等に譬へた。われわれの知識は、その子等が掘る砂の池にも等しいのだ。――小池に這入った僅かの水を、われわれが喜んでゐるうちに、大洋は涯しなく拡がってゆく。ああ、何といふ貧弱さだらう。それを思ふと、われわれは無限の世界を前にして、おのづから頭が下る。
 世界の栄華をといふあのソロモンも、神から、お前の要求は何んでもきいてやるから、思ってゐることを祈れといはれた時、
「神よ、智慧を与へ給ヘ!
 と祈ったさうである。私も同じ祈を。今日も繰返したい。
 私は、天の星のことが知りたい。風の流れと、雲の形の物語る意味と、土と、小石と、砂の教へてくれる地球の雁史に就て学びたい。それよりも、私は、路傍の草木の名が知りたい。その生活様式と、花の進化と、植物進化の方向が知りたい。植物学者は、局部局部を教へてくれるけれども、私の知りたいのは、宇宙の進化の方向に関係を持ってゐる植物進化の雁史である、
 なぜ、ベンペン草は、三味絲の「ばち」のやうな奇妙なものを幾十となくっけてゐるか? なぜ、無心の植物に、花といふ恋愛の表象が現れてきたか? 私は知りたい、知りたい。裸子植物が、なぜ針葉樹に多いか? なぜ或る本に葉が広くて、なぜ或る木は葉が針になってゐるか?

  昆虫の本能

 私は知りたい、知りたい。昆虫は、人間のやうに、機械を発明しないのに、あの小さい身体で飛ぶこと右出来れば、水中にもぐることも出来る。土中にも穴を掘れば、蛹のやうに仮死状態にはひることも出来る。
 或る生物学者は、それらの状態を見て、ただ機械的にのみ解釈せんとしてゐる。しかし私は、源五郎虫が空中に飛び上る翅を利用して、すぐ水中にもぐる潜水設備に変転し得る不思議を、ただ機械的だとは思へない。不思議だ、不思議だ。昆虫の変態は不思議だ。ラボックは、昆虫の変態は地球に関係があると、われわれに暗示する。
 さうかも知れない。地球に大変動があって、毛虫として棲息し難い時代があったために、昆虫は、長く蛹の形態をとったのかも知れない。それにしても、誰が、あのやうな不思議な生命保存の秘訣を教へたらうか?
 なぜ、蜜蜂は、産児制限の方法を知って居り、雄を生む時には、処女懐胎の神秘をそのまま実現し、雌を生む時には、なぜ雄の精虫を交へるだらうか? どうして、蜜蜂の女王は、雄蜂の精虫を、特別な袋に貯蔵する秘訣を憶えたらうか?
 或る学者は昆虫の生活は地球の表面に於いて長いから、本能的に生活を支配する力を知ったのだと云ってゐる。それが私には不思議でたまらない。なぜ、人間には、昆虫の持ってゐる本能が与へられてゐないだらうか? 人間は飛行機を持たなければ飛べないが、昆虫は、翅をもって飛ぶことが出来る。人間の知識より、昆虫の本能の方が、遥かに優れてゐるかの如く見える。なぜ本能といふものは、そんなに賢く芽生えるであらうか?
 昆虫ばかりに限らない。私は、遺伝の法則をもう少し深く知りたい。更に、突発趨移の季節と、方法と、傾向について知りたい。

  絶えざる疑問

 鳥に就いて知りたい、なぜ、孔雀が、あの美しい羽毛を選んだか? なぜ、鳥の卵が、短時間の間に、形のない無生の世界から、有生の世界に甦ってくるか? 私は更に、海の魚について知りたい。うなぎが、どこで育ち、どこからどうして川に上ってくるか? 私は、鰹が産卵する場所を知りたい。鮪と鯔(ぼら)の巣を知りたい。私は魚の心理が知りたい。

  知識慾

 私は、人間が知りたい。なぜ、人間が、こんな沢山の人種になったか? なぜ。経済がかく混乱するか? 私は、人間が耕作する農業につき、人間が発明する工業に就き、知りたいことばかりである。
 しかし、私は、知識だけでは、満足出来ない。私は、過去に就いての知識よりか、未来の鍵を開く智慧が持ちたい。私は、ノートブックに頼らなければ、機械の据附けが出来ないやうな大学式知識は欲しくない。ノートが無くとも、機械の組立てを自由に完成し、速度計を持たなくとも頬に触れる空気の触れ具合で、飛行機の速力が解るやうになる航空者の本能化した智慧が欲しい。ニヂソンは、学問のない人だったけれども、三千の発明をした。彼は、数学は下手糞だったけれども、多くの伝記機械を発明するに困難を感じなかった。エデソンは絶えず常識といふことをやかましく云った。しかし彼のいふ常識は、知識からきた常識ではないのだ。それは。智慧そのものであったのだ。智慧は、内から湧いてくるものだ。不思議なる洞察力、不思議なる予見、それが智慧の泉である。

  知識と常識

 ドイツの哲学者、ウヰルヘルム・カイザリングは、近代科学の与へる知識は、人間を自動車連転手のやうなものにしてしまふと注意した。運転手は、ガソリン・エエンジンの知識を持ってゐる。しかしそれを反覆することによって、何等未来に対する洞察もなければ予見もない。従って発明もなければ。発見もない。
 常識といふものが、唯単に、博覧強記といふことを意味するなら、記憶の悪い人にとっては、要求することは間違ってゐる。けれども、常識といふものは、必ずしも博覧強記を意味しない。それは、エヂソンの如く、大学校を出なくとも、接する事物に対して、洞察力を持っといふことである。
 そのために、われわれば絶えず、接触してゐる周囲の事物に就いて、洞察力を持ってゐなければならない。多くの雑単の名を一々知らなくとも、その雑草の生活様式と、人間に対する効用を、概括的に知らなければならない。それは動物についても、気象に就いても、同じである。

  知慧のない女たち

 嘗て、大阪の社会課で調べたことがある。数千人の労働階級の家庭に於ける乳児死亡率と、女学校出の娘たちの形成してゐる家庭に於ける乳児死亡率の比較研究をしてみると、不幸なことには、高等な教育を受けてゐる家庭の方にかへって乳児死亡率が高かった。そして、子を生んだことの経験のある。知識の進んでゐない、労働階級の家庭の方が子供を死なす率が低かった。それを調べた島村藤人氏が報告して曰く。それは、労働階級の家庭に於いては、子を生ん
だ経験のある祖母がついてゐるに反して、女学校出の家庭は、その両親と別居してゐるためであると。
 ここに、知識と智慧がの差別がある。女学校出の人々は知識を持ってゐるけれども、智慧がない。彼女等は、哀れにも、教科書だけで育児が出来ると思ってゐる。それに反して、知識はないけれども、智慧のある労働階級の家庭に於いては、嘗て子を生んだことのある母が、若き産婦を指導することによって、子供を死なす率が少くなる。
 これは多くの発明家の場合に於いても同じである。多くの機械器具の発明は常識の所産である。無線電信を発明したマルコニーは、大学者であるといふことは出来ない。電気に就いての常識を持つことによって、彼の洞察力が。無線電信へ高飛びさせたのだ。自動車を発明したヘンリー・フォードについても同じことがいへる。彼は常識の持主であったのだ。遺伝の法則を発見したメンデルに就いても同じことがいへる。彼は一種の洞察力を持ってゐたのだ。彼は、ダーウィンのやうな大学者ではない。彼は豌豆を庭に植ゑることによって、赤の花と白の花が、自己媒介の後、代数の二次方程式の形であらはれてくることを発見した。それは全く一つの洞察力の賜物である。

  エスキモーの常識

 エスキモーが北氷洋に棲息し、ギリヤークやオロチオン族がシベリヤの荒野に生活し得るのは、全く先祖伝来の常識によってゐるのである。
 私は、樺太の博物館や、シカゴの博物館、またカナダのトロントの博物館で、北極に近い人々が魚の皮で雨合羽を作り、獣の皮で着物を作ってゐる実状を見て、彼等の驚くべき智慧に驚嘆したことがあった。われわれの想像では、北氷洋の近くは誰一人住まない筈だのに、エスキモーの常識は、馴鹿や海豹の皮を着て、平気で零下幾十度の寒い処に耐へてゆく。薄い天幕の上に氷が張り、雪が積もれば、不思議に、室内は一定の温度を保つやうになり、少し油を焚いて部屋を温めると、その温度が。相当に長く続くといふことである。
 私は、ギリヤークの作ったスキーを見て驚いたことがあった。スキーの裏に海豹の皮を張り、どんな雪の積もった坂道でも、どしどし登って行くのである。さうした智慧は、常識が発達してゐなければつくものではない。

  治療の常識

 これは病気の治療などに就いても同じである。ドイツや北欧に林檎療法といふのがある。数ケ月治らない胃腸病の人が、林檎を大根下しで下して、そればかり食ってゐると、二日くらゐで綺麗に治ってしまふ。また、湿布療法が、大底の病気に効くことは、驚くくらゐである。医者が治らないといふ中風を湿布で治した例は、いくらもある。
 光線が肺病に効くといひ出したのは極く最近である。ほとんど嘘のやうな話であるけれども、光線のうちには、黴菌を殺す力もはひってゐれば、栄養になる力もはひってゐる。光線療法といって、近頃は、日光浴をする人が殖えたが、この療法の如きは、常識が医学を引摺ったやうなものである。
 これは空気療法や栄養療法についても同じである。最初、空気療法が米国から伝はってきた時、肺病人は風邪をひくことを怖れた。しかし今日では、それがもう常識になってしまった。人間、空気を吸って生きてゐることはわかってゐるけれども、馬鹿なわれわれは、部屋を閉め切って、炭酸瓦斯を吸ひたがる。その結果、肺結核患者が殖える。
 栄養の場合に於いても、常識が発達すれば病気にかからないものを、御馳走を食って病気する人が多いところを見ると。如何に人間が馬鹿であるかがわかる。腎臓炎を患って私の気がついたことがあるが、尿に効く薬として、日本の大底の毒草でない植物の葉が用ひられてゐるといふことである。灸が効くといって、昔から大勢の人がそれを実験してゐるが、最近灸を研究して博士になった人もある。

  常識は救ふ

 有名な画家高島北海氏の令息三郎氏は、四つの時に疫痢に罹って死んでしまった。医者はこれを見放した。死んで一時間くらゐ経って、産婆さんが飛んで来た。
「では、私にこの死骸を下さいましね。私は。この死骸にからしを貼って、生き返らせてみますから」
 さういって。産婆は子供の身休にぺたぺたとからしを貼り附けた。すると、どうしたことだらう、死んだ病人が生き返ってきた。そして高島三郎君は、その後、三十年以上も長生きをした。
(この話は、私が三郎君の実兄から聞いたことであるから間違ひないと思ふ)
 印度の苦行者は、禅室に入って断食した結果死んでしまふ。しかし、また一ヶ月も死んで死骸を取り出して、からしを全身に貼り付けて、舌を掴み出すと、不思議に蘇生することを、ドイツの生理学者などが報告してゐる。ドイツの有名な生理学者のマクスフェルオルンなどが、これを記載してゐる。からしが、こんな事に用ひられるといふことは不思議なことであるげれども、実際に効くのだから仕方がない。
 瘭疸にかかって外科手術をすると、四十日も五十日も悩む。石油の湿布をして一日括っておけば、そのまま治ってしまふ。嘘のやうだけれども、ほんとだから仕方がない。
 かうした事実は、まだ幾らでもあるだらう。要するに、われわれは常識を持たないために、どれだけ生命を傷附け、どれだけ損をしてゐるかわからないと思ふ。

  非常識船を沈む

 一万噸に近い国際汽船の大福丸が、大平洋で沈没した。大福丸は、小麦を何千噸と積んでゐたが、波に揺られて小麦が一方に偏し、そのまま窓から水がはひって沈没したのであった。これは一九二五年の春の出来事であった。常識のある船長は、小麦を入れる場合に、大底板で仕切りをするのだが、仕切りをしないで、そのまま船に積み荷したために。一万噸に近い船を沈没させたのであった。

  水は火を消す

 大正十二年の震災当時、幾百万の市民は東京から逃げた。その時神田和泉橋の附近の人々は、ポンプを取り出して消防に努めた。それで、あすこだけは火の海の中で離れ小島のやうに助かった。消防すれば火が消えることは誰でも知ってゐる。しかし、誰でも知ってゐるその消防を江戸っ子はしなかったのだ。それで東京は七割四分燃えてしまった。あの時、東京の人々が、もう少し気を落着けて消防にかかってゐれば、東京は救へたらうと私は思ふ。 東京の火事は、いっも、朝は北から南へ(陸から海へ)延焼する。そして晩はその反対になる。徳川時代三百年の’東京の火事の歴史を調べてみると、東西に延焼した火事といふものは一つもない。もしも、この後東京に大きな火事があるとすれば。それは南北に燃える火事であることに決ってゐる。それで私は、震災当時、永田市長に忠告に行って、幾つかの小公園によって、本所深川を東西に区切って欲しいと頼んだ。しかし復興した東京にはさういふことがしてない。この次の東京はまた、安政年間の火事や大正十二年の火事と同じやうに燃えるだらう。
 単なる雑駁な知識でなく、深く宇宙の智慧に徹底して、環境を支配する常識が現代人に欠けてゐることを私は痛感する。私は、国民の一般が、もう少しかういった方面に修養の出来るやうに祈るものである。