黎明43 キリスト劇について

  キリスト劇について

 最初、佐藤紅緑氏の戯曲「キリスト」が『大阪毎日』に出た時、私は佐藤氏の苦心を思うた。佐藤氏は勿諭キリスト研究の専門家ではない。それで研究的にいへば色々と問題になるところもあらうが、キリストについてあれだけの理解をもち、あれだけ戯曲化し得られたとすれば、まづ成功であると考へなければならぬ。キリストの思想をあの短い文句の中にあれだけ生かし得ることは、平凡な戯曲家には出来ない仕業である。時間の関係や、思想的発展についての経過をあの戯曲に要求することは困難であらう。劇として、永久の「愛」と、刹那的愛の区別を明確に現したものとしては、戯曲「キリスト」は大成功であらう。
 沢田正二郎氏がその演出に苫心した事についても、私は同情と敬意を払ひたい。私は昨冬十二月の或る晩、本郷座を見に行った。そして、或る程度の満足を感じて帰って来た。私は、終り二幕を見ることが出来なかった。しかしあの種の困難な戯曲をあの程度に演出し得る沢田氏はやはり平凡な人間ではない。キリストが少し堅くなり過ぎると人はいふかも知れない。しかし、あの程度で結構だと思ふ。理窟をいへばいくらでも註文は出てくる。しかし、あの種本をあの程度で演出し得るなら非常な出来栄えだと思ふ。
 私は見なかったが、最後の十字架のシーンを見た私の友人は泣いて帰って来た。或る老牧師は、舞台に飛び上って、代って十字架を担ぎたかったと云った。それだけで、もうこの戯曲は大成功なのだ。もし、この戯曲に欠点がありとすれば、沢田氏に欠点があるのではなく、戯曲の構成そのものが、多少無理をしているのである。それは五幕十二景に(さうだと私は記憶してゐる)あのキリスト一代の出来事をすっかり畳み込まうとしたこと。劇としての要素を豊富にするため、母
マリアと、マグダラのマリアに重大な任務を負はせたことにある。
 マグダラのマリアはモダン・ガールのやうだと、或る人が評してゐたが、さういふ気味がないでもない。どうも、松井須磨子の「カチューシャ」を再現させたやうに私に取れた。もう少し落著いたマリアが欲しいやうに思はれる。
 しかし、みんなが、キリストを自分のものと思ってゐるところなどは、劇全休を通じて、一種の倫理観を強く民衆に教へてくれる。
 第三幕は、オスカア・ワイルドのヨカナンを思はせるところである。しかし、王へロデの王宮の後にゲッセマネの祈があるところなどはとても感激的なシーンである。あすこは誰でも感じたと見えて、見たものが、一様に私にさう云ってゐた。
 ただ私に取って耳ざはりになったのは、エルサレムの讃美歌であった。「すすめつはもの」のやうな非芸術的な拙い歌を歌はないで、中世紀のチャントでも歌ってくれるとよいと思った。戯曲にはさう書き入れられてあるが、せめては、賛美歌「四八二」あたりをそのまま歌ってくれるとよいと思った。日本の讃美歌も最近著しく進んだから、二十年前によく歌はれたアメリカの歌は、今ではもうわれわれの耳に雑音として聞えるやうになった。あの荘重な戯曲に、あの雑音を配合さぜられてはたまらぬ。もう少し薫りの高い、メロディーの豊かなものを選んで欲しいものだ。しかしこんなことは劇全体としては小さい問題だ。全体として、私はこの戯曲は成功してゐると思づてゐる。
 キリスト劇にも色々なものがある。キリスト劇と称して、反キリスト的のものも相当にある。それ等に比べて、佐藤氏のものは、キリストを真正面から見てゐるだけに、あまり悪い感じがしない。私は、内観的傾向のあるこの劇が民衆に受けるか否かは知らぬ。しかし、これが演出され得る時代の来たことを心より喜ぶものである。