黎明45 中江藤樹とキリスト教

  中江藤樹キリスト教

 帝大で宗教の講座を受け持つ姉崎博士が、英文の『日本宗教史』を書いてゐられるが、その中、日本の儒教とその関係について書いた処に、中江藤樹のことが出てゐる。そこには、中江藤樹キリスト教の感化を受けたことが書かれてゐる。中江藤樹が大洲にゐた時に、キリシタンから凍傷の薬を貰ったと書いてある。『キリスト教史』のうちに、一六二六年四国の大洲にゐた或る儒者が、キリシタンからキリスト教の感化を受けたらしいことが出てゐるが、それと全く符合して、中江藤樹の思想のうちにキリスト教と余く同じものがあることを姉崎博士が高調してゐられる。
 井上竹次郎氏の「日本陽明学派の哲学」を見ると、やはり中江藤樹が、天地の唯一つの神を信じてゐたことを書いてゐる。それを私は興味ふかく感じるものである。元来、中江藤樹が現存してゐた頃には、キリスト教は厳禁せられてゐた。それを犯して中江藤樹が唯一無二の神を拝んだといふことは、実に勇敢であるし、また中江藤樹を生んだ一つの大きな理由になったと思ふ。中江藤樹の伝記の中に、深く感ずるところがあって、皇上帝を祀るとある。皇上帝とは支那キリスト教でいふ神である。日本では「神」は精神の「神」で、宇宙万物の神の意味がはっきり出て来ない。それを支那では皇上帝といふのである。これがキリスト教でいふ万物の神である。それと考へ合せると、中江藤樹は驚くほど、キリスト教の信仰を持ってゐたことがわかる。
 それは、井上氏の言葉にしたがふと、理気である。「……これを上帝とす、即ち万有精神とも称すべき世界の実在なり。然るに世界は理と気の二元より成る。理はその心にして気はその形なり」「然るに藤樹の上帝は決して理気以外にあるものにあらず。分ちてこれをいへば理気なり。合してこれをいへば上帝なり………」即ち中江藤樹は、宇宙の神は唯一つの神であると実にはっきりと考へてゐた。神霊論を読むと、なほはっきりしてゐる。
「藤樹は天地を造り万物を生ずる上帝ありと思惟し。或はこれを天といひ、またこれを皇上帝といひ、また太一尊神といひ、また太上天尊大一神といへり。上帝は世界の実在にして、遠くして天地の外、近くして一身の中、久しくして古今の間、暫くして一息の頃、微にして一塵の内、幽にして隠独の中、上帝のあらざる所なく、一念の善悪、一事の善悪の上帝得てこれを知れり。これを勧懲するに、禍福を以てす。是故に上帝は極めて尊ぶべく、極めて畏るべきもの、然るに世人がこれに出でざるは、これを知らざるによるのみ」
 この神に対する心持から凡ては始まる。この心は「持敬」、即ち今日われわれがいってゐる「敬虔」である。特敬は聖学の始まりであって終りである。
 持敬は聖人の根本である。井上氏はキリスト教が嫌ひだから、これに就いては黙ってゐられるが、姉崎博士ははっきりこれをキリスト教からきた思想だといってゐる。
「個人と宇宙との関係が孝行の始まりだ。そして道徳生活は宇宙の神に孝行することから始まる。これが根本原理である。宇宙の凡ての道徳は、宇宙の神に対する孝行を応用したに過ぎない」といってゐるが、この宇宙の神に対する孝行の主張は、藤樹の経験から出たのである。単に彼の説だけでなく、彼の生活と学識のうちにもこの傾向が残ってゐる。そしてそれは王陽明学派の良心説と一致してゐる。藤樹は、実践道徳を無視しなかったが、神からきた良心を離れての単なる道徳は無意味だと考へた。この良心の琢磨は、宇宙の父なる神に対する心尽しと、精神生活の修養とによってのみ達せられる。神を宇宙の父といったところに、中江藤樹孔子学派と違ってゐる点がある。普通の儒教学派であるなら、政治的道徳や知識に力を入れるのであるが、藤樹は、政治や道徳を離れて、宇宙の神を根本にした。そこに普通の儒教と違ふ点がある。藤樹は、だから、宇宙の心に意を注いだのである。そしてキリスト教一神教に近い思想を持ち、仏教に対しては反対した。仏教はあまりに隠遁的だからいけないといふのである。勿論、彼は仏教のためにいろいろと弁護してゐるが、隠遁的仏教には反対してゐるのである。
 中江藤樹キリスト教の感化を受けて、その思想はキリスト教的であったが、母が仏教徒だったので、孝行な彼は母に仏教の経典を読んであげてゐた。中江藤樹のおぢいさんも偉い人で、米子の殿様に仕へてゐたが、伊予の大洲へ行く時に、幼い中江藤材も連れて行った。殿様はおぢいさんを郡長にした。中江藤樹は田舎に行ったが、おぢいさんは字が下手で、本も読めなかったので、おぢいさんは中江藤樹を愛して、勉強さした。
 中江藤樹は、初め、室鳩巣や林羅山の属する朱子学派に熱心であったが、朱子学派では窮屈だ、形ばかりに捉はれてゐては聖人になれないと思ってゐた。父は中江藤樹が十八歳の時死に、母が一人残されたので、母を伊予に連れて行かうとしたが、母は行かうとしなかった。そのうち、おぢいさんが死んだ。中江藤樹は、おぢいさんやお父さんが死んだので、近江の小川村に帰って母に孝行しようと思ったが、どうしても帰ることが出来なかった。その時丁度殿様の息子が大名になったので、官を辞して、近江に帰った。時に彼は二十七歳であった。
 私は伊予の大洲にも、近江の小川村にも行った。小川村に今日遣ってゐるものは、小さい倉と、粗末な藤樹の書院きりである。琵琶湖畔から一里以上もあったらうか、そこを歩いて行ったのを憶えてゐる。中江藤樹は藤の木が好きだったので、今でもそこには大きな藤の木がある。
 中江藤樹は四十一歳で死んだ。キリスト教の感化は二十四五の時伊予でうけた。村の人はキリスト教には大反対だし、藤樹の学説に就いてあまり考へてゐないし、藤樹がキリスト教から来たといふことを知らなかったので、村の人は中江藤樹を祀らうかといひ出した。
 この陽明学派がキリスト教と一緒になった。が、陽明学といっても、支那陽明学ではなく、日本のキリスト数的陽明学であった。これが熊沢蕃山となり。大塩平八郎となり、西郷隆盛となり、吉田松陰となったのである。
 中江藤樹はかやうに非常に大きな感化を残した人で、日本に於ける動的な聖人の道の開拓者である。日本に於ける陽明学派は中江藤樹から始まつてゐる。日本のキリスト教は迫害を受けたが、中江藤
樹を通じて、神の摂理が働いた。聖人の道はキリスト教によって中江藤樹のうちに伝はった。それは徳川幕府に反対した朱子学派へも伝はった。
 昭和のキリスト教は、ことさら新しい道を歩まないでも、藤樹の道を歩けばいいと私は思ふ。藤樹ははっきりは云はなかったが、私は、彼はキリスト教徒であったといへると思ふ。
 同志社大学教授清水安三氏は、中江藤樹の隣村の人である関係上、数年の長きに亙って、中江藤樹キリスト教との関係を研究せられ、中江藤樹がやはりキリスト教であったことを信じてゐられる。同氏の説によると、中江藤樹は、小西行長の家臣中田某からキリスト教の教へを受けなかったにしても、その当時支那に流布してゐたキリスト教の感化をうけたに違ひないのである。それには詳しい実証があるけれども、私はさうしたことはここには述べない。藤樹の信じてゐた太乙神といふのは、易教に於いては無限絶対を意味する言葉であるが。支那に伝はったキリストは、この太乙神を採用し、その太乙神の信仰が中江藤樹に伝はったのである。近江では、安土に太臼といふ処がある。これはラテン語のデュースを漢字にあてはめたものであらう。つまり、易教の無限絶対と、ラテン語のデュースの両方にかけて、太乙神と云ったのであらうと、清本安三氏は云ってゐられる。しかしその当時、キリスト教は抑圧せられてゐたので、中江藤樹は、床の間に帆柱の十字架を置いて、その帆の上に太乙と書き、それを常に礼拝してゐたことが、弟子たちの記録に残ってゐるといふことである。これは潜伏キリスト教の一つの形であると、私は、清水安三氏から教へられて。今更ながら、中江藤樹の信仰と優れた人格が、いづこから来たかを学んだのであった。藤樹先生の弟子熊沢蕃山も、七十三で老死するまで、日本に於いても必ずキリスト教が勝つといふことを絶叫してゐたといふことである。これを見ても、中江藤樹の系統にはキリスト教的感化が多かったことがわかる。