黎明46 貧民窟の女

  貧民窟の女

 貧民窟の女性は、一般的に云って、極めて叛逆性に乏しい。強い意志に向っては、それが善であらうが、悪であらうが、いつも何等の抗争なしに唯々として屈従して行く傾向を彼女たちは多分に持ってゐる。さうした傾向には種々な理由がある。
 貧民窟に落ちてくる大多数の人々は。本質的に、多少欠陥のある人々である。これを生理的に見れば、病気であるとか。負傷してゐるとか、癈疾者であるとかいふ者が多く、心理的に見ても、白痴、発狂、変質者などである。またこれを道徳的に見るならば、犯罪者、博奕打、淫売婦、ごろつき、酔っぱらひ、なまけ者等である。
 かうした不健全な人々がその大部分を占めてゐる貧民窟に住家を探し求めなければならない、世に謂ふ落伍者の多くも、経済的原因の他に、生理的に、心理的に、道徳的に何等かの欠陥を持ってゐるのである。貧民窟の人々と普通一般の社会人とを比べてみるならば、彼等が如何に肉体的にも精神的にも劣ってゐるかといふこと、更にはなはだしくその生活力が去勢されてゐて、全く不具癈疾者同然になってゐるといふことに想ひ到るであらうと思ふ。
 しかるに不思議にも、大体に於いて女性のみは、かうした人々の群の中にあって、不道徳から遠ざかり、賭博場には近よらず、飲酒癖にも割合に囚はれない。貧民窟の男の、最も普通な、野卑な、そして最も誘惑力の強い頽廃的の享楽生活に感染しないで、反対に、多くの子供を教育しつつ、善良な家庭を作って行かうともがいてゐる者が多く見受けられる。つまり。貧民窟の女性には、叛逆する意志さへ失ってしまって、現在の生活状態から一歩を踏み出す欲望もなく、それを甘受してゐるものが多いやうに思はれる。悪く言ふならば、ぐうたら女が多いのである。それであるから、貧民窟に於いては、接近して行く男子に対して、誰彼といはず、肉体を任してしまふといふ女性が比較的多い。東京市深川区猿江裏の貧民窟の調査を見ても分るごとく、五人の子供が一人づつ違ふ継父を持ってゐるといふやうな例は少くない。主人が泥棒であっても、詐欺師であっても、海賊であっても、要するにどんな悪いことを犯してゐやうとも、さうしたことには無神経であるばかりでなく、まったく悪い顔さへしない。私はさう云った女を多く見た。貧民窟の女は、ほとんど、善悪の観念の区別がつかないほど生活難に喘ぎ苦しんでゐるのである。
 大休から見て、貧民窟の人口は、男子より女子の方が多く、それも中年以上の者が多い。といふのは、男子の多くは貧民窟の境遇に甘んじないで、元気に満ちた青年時代を決して貧民窟に送らないからである。それであるから、貧民窟にゐる男子の多くは、子供か老人かである。叛逆性のある男子は、意気地なく貧民窟に止まるやうなことはしない。各自その能力に従って、善い意味に於ても。悪い意味に於いても、とにかく活動するのである。女子も亦同様である。  
 ただ、例外として、変質的な女性と、生活難のどん底に沈んだ女性と、平常柔和な、むしろぐうたらと考へられる女性は一大爆発を演ずることがある。例へば、米騒動のごときはそれである。大正七年で富山県滑川の女房連が騒ぎ出して、二府三十県に蔓延した米騒動の余波が、当時私の住んでゐた貧民窟口も浸入して来た。その時など、貧民窟の玄房連は、平素の純情を捨てて、まったく阿修羅のやうに狂ひたけった。私はその姿を目撃した。大正七年八月十二日の朝、前回の米相場を考へて、五十銭ばかりで一升の米が買へると思って出かけたおかみさんたちは、米屋の店先に来て初めて、一日のうちに十銭騰貴してゐることを、発見して騒ぎ出した。かうした光景は、貧民窟の米屋十数軒のどこでも見られた。この全く計画のない突発的騒動は、これらの女房連から持ち上ったのである。しかもその晩、約七ケ所から火災がもち上って、群衆は恐怖と不安に戦慄した。騒ぎは益々悪化した。それで遂に軍隊の出動を見、辛うじてその暴動を食ひ止め得たといふ始末であった。
 かうした社会的な叛逆は、まことに珍しい現象であるが、人の好い貧民窟のおかみさんたちの中には、変質的に叛逆性を持ってゐると考へられる女がないわけでもない。私の近くにゐた前科二犯の女は、二人の子供を育ててゐたが、いつも彼女の理想としてゐる男は、石川五右衛門であった。
「泥坊になるなら、石川五右衛門のやうな偉い奴になりたいなア」
 と常に口癖のやうに言ってゐた。まさかこの女はバフーフのやうに盗む権利を肯定してゐるわけでもなからうが、泥坊することを何とも思ってゐないところに、貧民窟の女性の本能的叛逆性ともいふべきものが看取されるのである。
 貧民窟の女が淫売婦になってゐる時は、現行法律などに対して、企く叛逆的であって、警察官などに対しては、少しも尊敬の念を抱いてゐない。そして、云ふことが面白い。
「お上では、税金を出すから、前を売ってもよいと鑑札を下げてゐるが、前を売ることは、淫売とちっとも変ってゐやしないではないか。うちら少しも悪いことはしとらない。それに、わしらを警察に拘引して行くのは、間違ってゐる」
 かうした態度は、貧民窟のごろつき仲間には極くありふれたことであって、それが貧民窟の変質的な女性に感染してゐるのである。貧民窟の変質的な女性の間には、性的生活に関しても頗る常規を逸してゐて、近代人の生活以上に超越的なところが多分にある。
 彼女たちは、淫売しながらも、自分の熱愛する恋人を持ってゐてみたり、さうかと思ふと、或る者は、地廻り淫売と称して、一ケ月とか、三ケ月とか、一人の男と一緒に棲んで、その期間が過ぎると、また次の男に移り、転々として男を変へて行って平気な女もゐる。エレン・ケイ女史の『自由結婚論』を読まなくとも、この種の女は自由離合の心理をよく了解してゐるものと見える。彼女たちは、家庭生活に叛逆してゐるといふ点から見れば、徹底的であるが、しかしその内面生活は、どんなに空虚であらう、寂しいことであらう。この点から見れば、彼女たちは近代人以上に深い悩みと悶えとを無意識の上に蔵してゐると云へる。
 貧民窟の娘たちのうちに、多少叛逆的なものが出て来ても、その多くは叛逆性を現さないうちに、八分通りは娼妓に売られてしまふ。そして残りの二分は、十七、八歳にならない前に、既に子供の一人くらゐを抱へてゐるのであるから、彼女たちは、ほとんどその叛逆性を現さずに、といふよりも、現すべき意力と機会とを奪はれて、生涯を終るのである。