黎明49 聖書の感化力

  聖書の感化力

  浴槽の聖者

 このほど物故せられた内山佐(たすく)氏は、全く奇蹟的な生活を送った人であった。彼は九州帝大の病院で、施療患者として十数年の間、消毒薬の這入った浴槽の中で文字通りの苦行をした。それはかうである。
 或る目、彼の身体に小さい腫物が出来た。それを掻くと全身に拡がった。九大の皮膚科の医者に診てもらふと世界でも珍しい天疱瘡であった。医者はこんなことを云った。「君は消果菜に浸ってゐれ
ば命が続くけれども、上ればすぐに死ぬよ」
 それを訊いた内山氏は絶望の淵に追ひ込まれた。試みに彼が浴槽から出てみると、医者のいふ通り、また腫物が全身に出来て死にさうになった。天疱瘡は全く不治の病であったのだ。絶望の結果彼は自殺の道具を探した。しかし、彼の母は彼の兵古帯をも匿し、すべて自殺を謀るやうな道具は匿してしまった。それで。この苦行者は落胆の結果舌の先を愉みきって死なうと思った。さうして数ケ月経った。

  十銭の聖書

 その時、一人のキリスト教の教師が、その当時一冊十銭で買へた『新約聖書』のロマ書第五章三節に印をつけて。内山佐氏の病室に差し入れた。ロマ書第五章三節といふのはかういふ文句になってゐる。
「然のみならず患難をも喜ぶ。そは患難は忍耐を生じ、忍耐は練達を生じ、練達は希望を生ずと知ればなり」
 暇で暇で困ってゐた浴槽の苦行者は、その『聖書』を一旦手には収り上げた。しかし「患難をも喜ぶ」といふ文句が瘤にさはってしまった。
「――これは俺を冷かすために印をつけたのぢゃないか」
 などと、わざわざすねて解釈してみたさうであった。それで内山佐氏は一旦収り上げた『新約聖書』をすぐ投げ出してしまった。
「――俺が生れて来たのが間違ってゐたんだ。死んだ方がいいんだ。死なう、死なう」
 さう思ひ詰めた彼は、『聖書』のことなどに気がつかないで、すぐに死んでしまはうと、すべての光に顔を背けた。
 しかし不思議、不思議! 一旦こびりっいた『聖書』の言葉が彼の頭を離れない。「患難をも喜ぶ」――この文句が天来の声のやうに胸底に響いて来た。で、彼は捨てた『新約聖書』をもう一度取り上げて、初めから読んでみることにした。そしてイエスといふ大工が、人のために苦労して十字架にまでかかって死んだといふ事が初めて判った。
「不思議な男もあったもんだ。俺は自分一人のためにこんなに苦しんでゐるに拘らず、世には不思議な男心あったもんだ。人のために苦しんでゐる変っだ男がある。全く贅沢はいへない」
 本を読むといっても、彼は机に向ってよむのではない。動物園の河馬のやうに、浴槽に浸ったまま『聖書』を読むのであった。ページを繰る時には、消毒の薬が、ページにつかないやうに、手拭で一々指を拭き、そして次のページをめくるのであった。さうした苦労をして読んでゐるうちに、自己一人の苦痛のために死を急ぐのは間違ってゐる事に思ひついた。寧ろ苦しむなら人のために苦しむのがほんとだといふことが解っだ。これは精出して『聖書』を読むに限る、と思った彼は、拭き取っても拭き取っても指先に残る消毒薬のためにぼろぼろになった『新約聖書』を繰返し繰返し読んだ。そして読む度に自分が新しい世界に這入って行きつつあることを感じた。彼は、イエス・キリストが凡ての苦難に勝ち得た理由が、人間一個の努力でなく、宇宙の神の力にあることが判った。そして彼も小さい浴槽に浸ってゐながら絶対なる神の恩寵に浸り得ることを徐々に発見したのであった。

  神の発見

 狭い隔離病室は忽ちに神殿と変り、浴槽は祭壇と早変りをした。天井裏には紫の雲が漂ひ、消毒薬の中には黄金の波が立つのではないかと思はれた。
 苦悩は忽ちにして忘れられ、自分自身が、生きなからにして宇宙至高の神の子であることを感じた。神の子の自覚に這入ると共に、内なる霊の歓喜はもはや抑へることが出来なくなった。彼は初めてロマ書第五章三節四節の言葉の意味を理解するに至った。即ち、患難によって忍耐づけられ、忍耐は練達を生じ、練達は希望を生むといふことがよく解った。
 彼はつひに、朽ちゆく肉体の世界に於いてすら、神の恩寵がしとしとと慈雨のやうに降り注いでゐることがわかった。
 かうして『聖書』の行者となりおほせた内山佐氏は、前とは反対に、見舞客を掴まへては神の恩寵を説くやうになった。彼が今年(昭和九年)の夏この世を去って天に帰るまで、十数年の浴槽の生活は全く多くの人に対する慰めの生活であった。

  人殺しの改心

 これに似た話は他にもある。好地由太郎が『聖書』を読んで改心した。彼が日本橋の女主人を殺し、横浜に逃げたのは、丁度彼の十九歳の時であった。しかし逃げた先の横浜でも彼は再び罪悪を犯し、そのために横浜の未決監に繋がれた。その当時はまだ日清戦争前であったので、日本ではキリスト教の話を聞くことさへ稀であった。ところが、基督教の辻説法をしてゐたために未決監に打ち込まれてゐる一人の青年があった。彼は毎朝、好地由太郎の監房の隣で分厚い書物を読んでは呪文のやうな物を唱へてゐた。由太郎が不思議がって、読んでゐる書物の名をきくと、基督教の『聖書』だといふことが解った。
 一週問も経たぬうちに、その男は監獄を出ることになった。で、由太郎はその書物をもらって読むことにした。好地由太郎は『新約聖書』を開いて、第一頁を読んでがっかりしてしまった。そこには、破獄する術が書いてはなくて、博労が読めばよいやうな、馬を太らす伝とも考へられるものが書いてある。それに失望した由太郎は、北海道空知の監獄に移されてからも二度と『聖書』を読まうとはしなかった。それから約七年経った。突然彼は夢の中で、『聖書』をよむやうにとの天よりの声を聞いた。彼は教誨師に『聖書』を借りて読んだ。そしてイエスといふ人物の偉大さを知った。彼は忽ち生れ変った。彼は無期徒刑囚であったが特赦によって、二十五年の鉄窓の生活から許されて再び娑婆に出てきた。しかし、『聖書』を読んだ彼は昔の由太郎ではなかった。彼の感化力は男爵森村市郎左衛門にまで及んだ。森村男は彼によって洗礼を受けたのであった。しかのこの不思議な感化力が、仏教の教誨師が彼に貸し与へた五銭の『新約聖書』から来たといふから不思議ではないか。
 宗教文学には昔から不思議な力が残ってゐるが、『聖書』は特に不思議な書物であると私は思ふ。今も日本に於いて不思議な奇蹟を次から次に起しつつあることを思ふと、私は『聖書』の前に自然頭が下る。

  釈迦と孔子とキリスト

 甲「おい君、キリストと孔子と釈迦のなかで、誰が一番偉いんだ?」
 乙「三人とも偉いのだらう。宗教っていふのは、どれでも同じことだらう」
 甲「僕には、ちっともわからないな」
 乙「わけのぼる麓の道は多けれど、同じ高嶺の月を見るらん、といふことがあるから、みんな同じだと僕は思ふがね……しかし、×月×日に賀川豊彦の宗教講演会があるから、あの人に質問してみようぢゃないか」
 甲「それは面白いね」
 かうした会話のあった後二人は約束したとほり、賀川豊彦の講演会に出席した。講演がすんだのち、二人は彼に近づいて質問を発してみた。
 甲「ちよっとお尋ねいたします。キリストと孔子と釈迦のうち、誰が一番偉いのですか。ここにゐる僕の友人は、みな同じといふのですけれど、腑におちぬものですから、お尋ねしたいと思ってきたのです」
 それに対して、賀川豊彦の答は、かういふのであった。
「釈迦も孔子も、神といふことをいってをりません。孔子は現在を説いた人で、釈迦は、その現在をも否定した人です。孔子は大臣で、釈迦は王子でした。二人とも聖人であることに相違ありません。しかし私がみるところでは何だか物足りません。宗教は生きる工夫です。生命を自由自在の境地、つまり神にまで引きあげたいと努力するところに、宗教生活の真剣味があるのです。みな高嶺にむかってゐるのには違ひありませんけれど、孔子は八合目まで、釈迦は九合目まで、キリストは頂上に行つてゐるやうな気がするのです。あくまで現在を肯定し、現在のほかに過去と将来とをみとめ、過去の過ったところを否定することにおいては、釈迦の気持をくみ、将来に対してはキリストの教へた神の子になるつもりで努力すればいいやうに考へます」