黎明52 最微者への奉仕
最微者への奉仕
今はもう故人となられたが、私が会った多くの日本婦人のうちで私に最も大きな感化を与へてくれたのは、神戸養老院創立者である寺島のぶえ女史であった。彼女は。僅か十三歳のときに結婚を強ひられ、結婚して一晩のうちに逃げ帰って来たといふ妙な経験の持主であった。
しかし、帰って来たけれども、間もなく妊娠してゐることかわかったので、若くして子を生んだ後、一生独身で死ぬまで一人ぼっちでゐた。
私が神戸の葺合新川の貧民窟にはひったとき、私が一ばん持てあました老人の世話を全部引きうけてくれたのが、この寺島のぶえ女史あった。
彼女は看護婦の免状をとって、看護婦会を組織し、自分の同志と共に一切人の寄附を受けないで、自分が看護婦に出た収入で、老人の世話を始めた。その養老院といふのも、看護婦会の近所に一軒の家を借りて、そこに九人の老人を収容してゐたのだ。
私が教へられたといふのは、この自給自足の養老事業に就いてであった。私はそのころまだ白面の一青年で、彼女の如く、自分が稼いだ収入で救済事業をするといふやうな能力を持ってゐなかった。私は友人の授助でやうやく数人の病人を世話してゐた。それだのに彼女が、その細腕で稼ぎためた収入を全部ささげて、九人の老人を養うてゐることを見て、全く驚かされてしまった。
彼女は、熱心なキリスト愛の信仰に生きてゐた。そして人がかへりみないよぼよぼの年寄り乞食を、自分の母と同じやうに世話してゐた。
或る朝のことであった。彼女の留守中に、一人の老人が死んでしまった。留守中のことなので、そのころ貧民窟にゐた私に使ひが来て、
「寺島さんが留守ですから、どうか可哀さうな老人のお葬式をあなたにお願ひします」
といって来た。
勿論、私は寺島のぶえ女史の美しい志を知ってゐたから、すぐ神戸養老院に飛んで行って、寺島さんのかはりに、老人の湯灌をし、葬式も出さうとした。
のぶえ女史は、有馬のキリスト教修養会に行って留守であったが、お葬式までには帰るといふ電報が届いてゐた。しかし出棺の時間が迫ったので、私は看護婦会の人々に手伝ってもらって、宗教的儀式を終り、死骸を火葬場に運ぶために、養老院の小さい戸口から、寝棺を運び出して、表に据ゑた。
その瞬間に、停車場から車でかけつけだ女史は、車からとび下りるなり、自分の親でも失ったやうな悲しい顔をして、どこで買って来たのか、美しい花束を街路に横はってゐる棺桶の上においた。そして倒れるやうに地べたに跪き、合掌して黙祷し出した。
私はその厳粛な光景を見て涙を禁じ得なかった。これほどまでに真面目に世界の最微者に奉仕し得る人は、日本にそんなに多くはない。この女こそ、日本に於ける最も美しい女性だと、つくづくと彼女の犠牲的精神に感激したのであった。
その後女史は間もなく胆石病でこの世を去られたが、死ぬまで、彼女は憐れな老人に仕へ、世の人に認められない一生を送って、天国に帰って行った。
私は、今でも女史のことを思ひ出すと、キリストの女弟子として、日本にもめづらしい女がゐたものだと、感激の念のおのづから湧くのをおぼえるのである。