黎明54 認識論に就いての瞑想

  認識論に就いての瞑想

  認識の方法
 認識の方法は心を用ひて宇宙の実体を探らうとするにある。心の中心は、この場合、生命、力、変化、生長、選択、法則、合目的性を綜合したものの中、特に選択、淘汰力を借りるよりほかはない。そして物が実体であるか、物の奥に不変の実体があるかを認識せんと努力するのであるが、実の物体を研究せんとする心の作用そのものを物の外に置くことは出来ない。即ち、認識作用に含まれた選択作用そのものが、物を絶対性と考へた場合にはおのづから含まれてくる。
 すると方法が即ち実体の内容となる。物を実在として認識せんとする場合、心が物の副性として存往することは否定出来ぬ。心を副性として持つ物は、心によって心を知らよりほか道のないことを教へられる。否、宇宙の実在は、認識せられる為には認識的方法そのものの中に示現せねばならなものと考へねばならぬ。
 もし認識主体が、実体と縁もゆかりもないものとすれば、全く不可解なものであって、認識の対象とはなり得ない。そこで、対象を認識し得るものは、認識方法に自ら示現する心に最も近いもの、即ち心そのものであらねばならぬ。

  物質の客観性
 物質は客観性を持ってゐるために、絶対性を持ってゐるやうに考へられるが、客観性を実在性であると考へることは出来ない。客観は存在はしてゐる。しかしそれを宇宙の本質であると考へること出来難い。
 存在のみが宇宙の本質であると考へるには、宇宙には物質の外に存在してゐると考へられるものがあまり多過ぎる。
 空間的に拡がる物質の外に、時間的に拡がる生命、力、変化、生長、淘汰、法則、目的などが存在する。そして、存在を意識するものは生命以外にない。存在の持続性も生命の中に出現する。それは記憶を通してである。否、物質の存在そのものが心の世界を一旦通過した物質であることを否むことが出来ようか?
 物の存在は心の制限を一旦受けた存在である。心が存在するが故に、物が存在する如く見えるとも考へられる。

  物の副性
 物が今日われわれに啓示するものは、単なる空虚な存在でなくて、物が力の変化に従って変形し、法則によって支配せられ、合目的性の為に従的立場に立ち、淘汰せられ、進化せられ、心の世界にまで連絡を保って躍進するといふ事実である。
 かういふ物の世界の変化性は、物だけが自在性を持つ実体であるといふ考へをわれわれから取り除く。

  存在といふこと
 存在といふことは客観性といふことだけではあり得ない。存在といふことは、結局価値といふことを離れては考へられないのだ。価値を離した存在は零の内容しか持たない。価値と存在を併合したものが、価値創造によって存在をも可能となし得る心の世界の肯定である。
 心が宇宙の実体であると考へることによって、われわれは、客観性の物質を考へる際にすら、無理のない世界に到達し得るのである。