カインとアベル

 詩人バイロンは、人類の父祖、アダムの二人の子が、喧嘩したこのを批評して、カインは、平和なる野菜を神に捧げ、アベルは、血生臭い羊を祭壇に持つて行き、神はアベルを嘉納して、カインを退けたが、カインが怒るのは、当然であると云ふて居る。
 私はそれに就いて、深く考へてみた。私は、カインとアベルは二つの文明を現はして居ると思ふ。カインの文明は農業文明を現はし、アベルの文明は遊牧の文明を現はして居る。カイン文明はアベル文明に対して、一日の進歩を持つて居るが故に、兄として取扱はれて居るが、イスラエル民族から見ると、彼等は始めて、パレスチナに麦の種を蒔いた人々であつたのだ。だから即ち彼等は醜悪なるパレスチナの農業文明に比較すれば、まだ原始的な純潔さを失はずに居たとも云へる。
 然し、牧畜文明は、どちらかと云へば、共有共存の原始的な、道徳を保存して居り、農業文明は独占と奴隷的労働の、搾取を意味して居た。農業文明の来ない前には、奴隷文明はなかつた。その惨酷な文明に対して、遊牧文明が反抗したのは、当然である。即ち私は、イスラエル預言者宗教は、この原始的な遊牧種族の宗教を、奴隷制度を製造する農業文化の迷信に対して、飽くまでも訟訴し、維持した運動であると考へて差支へないと思つて居る。
 つまり、今日の農業文明が、工業文明の搾取に反抗すると同じ意味に於て、遊牧文明は、農業文明の搾取に対して反抗した、アベルとカインの物語の意味であらうと思つて居る。
 勿論遊牧文明は農業文明に殺された。兄のカインは弟のアベルに勝つた。併し搾取制度に反抗する心持は、神そのものの本質から出たものであつて、工業文明が農業文明に置き変るべきものであるにしても、その搾取に反抗することは、少しも間違つて居ないと同様に、神がアベルに味方したと云ふことも、必しも間違つたことだとは云へない。