二 炎天下のバラツク

  二 炎天下のバラツク

 バフツクは室内九十五度で、午前十一時過ぎはもう仕事も何にも出来ない。今年の夏の苦しみは誠に今から想像がつく、本所のバラツクの不良状態を研究したところが、五千二十二戸の直ちに改良を要すべき不良住宅が見付かつた。この状態では今年の夏の病死者は頗る多いことであらう。老人などで、あの焦げつく焼けトタンの下に住んで居る人々などは、病気になれば、とても救はれないであらうと思ふ。祈らざるを得ぬ。
 あまり急がしいので、近頃は読書の時間も、書く時もなくなり、弱つてゐる。
 此夏はまた大勢のヴオランチヤーが助けて下さるそうだから、調査に、救済に、賑やかに働けることゝ今から楽しみにして居る。私はもう八月のプログラムをきめられて、休みも無く馬車馬の如く一本軌道を走らさせられることになつた。
 松倉町に居ると毎日数人の身上相談を受ける。それらの人々のお世話をしてゐるだけで、一日の仕事が充分ある。その代り私は何にも出来ぬ。私はお世話することの悦びを持つと共に更に労作の出来ぬことを悲しむ。
 松倉町の仕事もだんだん進んで、寄宿舎の建築にも愈々取かゝることになつた。
 私は少し暇があれば、纏つた書物を書きたいと思つてゐる。それが出来ないのが悲しく思はれる。人が充分読み、充分書く暇を持つてゐるのが羨しく感ぜられる。然し明治四十二年の冬から今日まで、いつも今のように急がしく続いたのだと思へば、自分なから、不思議に思はれる。
 四ツ谷鮫ケ橘の野口幽香子女史は二葉幼稚園の創設者として有名なかたであるが、上流婦人の伝道に随分力を注いでゐられる。そこに集る人々は多く華族の夫人達であるが、なかには実に熱心な方も居られる。戸田子爵夫人などは最も信仰に燃えた一人で膵臓炎の痛みに苦しんで居られるにかゝはらず、実に驚く程の忍耐と勝利を持つてキリストの祈を祈りとし、『み心の儘になさせ給へ』と病床で祈りつゞけられてゐられる。私は或朝同姉を病床に訪れてその美しき信仰に大いに教へられた事であつた。同姉の上に、神の祝福を祈つてゐる。
 私の人気を気に病んで、或雑誌が大きな新聞広告に『現代の青年子女を迷はす賀川豊彦』と題して、私に公開状をくれたが、私の人気収りをいかぬと云ふのだ。何をしても新聞が一々私の行動を報告するものだから、凡てを悪いと或人は考へるらしいのだ。別に人気を得るためにしてゐるのではなく、たゞキリスト教を説きそれを実行してゐるだけなのだが、それが人気の元となるなら、キリスト教がもう少し人気の中心にならねばならぬ筈である。どうせ、『世にあたりては難みを受けん』とある通り、いつも人に可愛かられるばかりが、本分とは思はないから、もう少し憎まれもし、苦しみもしよう。然し私は存外、人の批評には平気である。
 ジョン・パリスの小説『きもの』を読んで私は実によく書けた小説だと感心した。なるほど、日本人をあれほど悪罵すれば痛快であらう。白人から見て、黄色人種はあゝも見えるであらうと私は考へた。もしも日米間の問題が永遠の問題であるとすれば『きもの』に現れた排日気分が、その根本的動機だと私は考へた。私はあの中に現れた恋愛などには少しも感心しなかつた。娘の性恪などは少しも描かれてゐない。それで私は恋愛小説として読まないで、日本批評としてあれを読んでみた。折々は日本の悪口を聞く必要もあらう。
 松沢村に来ると、青い森や畑にいきいきする。今年は此処に多くの子供を連れて来て、遊んで貰ふ。然し此処でも日中は相当に暑いので、机を狭い座敷中引づり廻はして原稿を多く、
 光の園托児所は実に立派なものが出来た。あれを二三年の中に取払ふことは惜しいと思つた。あしこで子供等が遊べることはどんなに幸福かも知れない。早いものだ、坊やが生れて一年六ケ月になる。坊やは貧民窟から持つて来た気管支炎を松沢村の善い空気で癒さうとしてゐる。紫外線にあてるために裸体で外に出す。坊やが松の木に登る。そのために四肢をまつやにで真黒にする。私は村に来た吾児を見て、貧民窟のお児供衆に心より同情して居る。夏のテント避暑はこの意味からも有意義だと考へて居る。
 神戸の事業は『死線を越えて』の印税で一万五千円の財団法人として置いたが、財団の外に伝道もあるので毎月どうしても現在でも五百円は経費に要る。それを私は一生懸命に祈りつゝ筆を持つて維持して居る。幸ひにも妻の妹の芝八重子が女子医学専門学校を今年の秋に卒業するので、神戸に行つてくれることゝ思つてゐる。伝道の方は武内勝兄が十年一日の如くやつてくれてゐる。
 私は本所で、一千名の集まる礼拝所の与へらるゝことを祈つて居る。みなさんも、私のために祈つて頂きたい。
 今井よね子女史が私達の為に献身して下さつた。同女史はお茶水高等女子師範学校を卒業せられて後、北越の滑川女学校の教授を永くしてゐられたが、あの地で実に驚くべき忍耐で伝道せられ、遂に昨冬、彼地を辞職せられて、我等のために奉仕して下さるやうになつたのだ。私は同志の一人として今井女史の敬虔な態度に常に敬服してゐるのであるが、どうか神が同姉を導いて、善き指導者として貧民窟の真中に据ゑ給はんことを祈るものである。セツルメント・ウオークには男の仕事よりも、女の仕事の方になす可きことが多いのであるから、同姉の如きしつかりした方がその方面に熟達せらるるならば、どれだけ善き仕事が出来るか知れない。私は同女史の新しき出発を心より祝福せずには居れぬものである。
 私は貧艮窟で一緒に働く同志とは、多く一緒に居る兄弟とは、多少欠点が有つても仲間として家族的に附き合つて来た。その為に、初めて接せられた方は、私が欠点の多いものを引立てゝ行くのに対して変に思はれるかも知れないと思ふ。然し、一旦同志だと名乗つた以上、そして一年以上一緒にやつてみて、その長所短所がわかれば、そんなに簡単に離れられるものではない。私は与へられた同志はたとひ叛かれても瞑黙する。
 然し私は長年の貧民窟生活に気が荒くなつて居るために、我ながら耻しいやうな言葉使をしていつも後悔してゐる。凡てを天父に赦して頂くより外はない。
 理想の生活を送れなければ生きないがました。現実に迎合して戦ふことを忘れたたゞ世間並の生活であれば、私は私達の団結を直ちに解散しよう。そのために多少いつも奮闘せねばならぬと私は考へて居る。私はかく祈り、かく努力してゐる。天の父様、どうぞお助け下さい。アーメン。