『死線を越えて』の発刊(3)

「小説でない」「中学生の作文だ」「テニオハまで無茶苦茶だ」「散文詩だ」と、一方で悪罵されながらも、洛陽の紙価を高めて、止まるところを知らぬ売れ行きであった。
 そこへ、神戸の川崎、三菱造船所の2万6000人の労働者が、未曾有の大罷業を起こした。その総指揮者は賀川であった。賀川が無抵抗を標榜して指揮した大示威運動は、図らざる動機から遂に警官と乱闘を演じ、抜剣騒ぎから職工側に死者さえだした。指揮者賀川は、警察に拉致され、短時日ではあるが、囹圄(れいご)の身となった。
 改造社は、この好機会を逃さなかった。連日のように、新聞に広告を掲載した。全2段の広告や半頁大の広告が出る有様である。「英国のシェクスピアの書の如く、我国の家庭に必ずなくてはならぬ人道的感激の多い小説」と宣伝した。『死線を越えて』は遂に、日本最高の売れ行きを示した。
 『死線を越えて』の売れ行きがすばらしいので、これを舞台化するものが出て、東京では伊井蓉峰、関西では澤田正二郎や生命座が上演した。
 新川貧民窟の無頼漢どもは、新聞や芝居で風評を知り、賀川を脅迫して金銭をゆすった。ある時など、はる子まで頭に鉄拳をうけて負傷する騒ぎであった。
 『死線を越えて』は、原稿料1000円で改造社に渡ったが、後に、山本実彦は改めて印税の契約を結び、定価の一割の印税を払った。川崎三菱の労働争議の後始末に、3万5000円投げ出し、警官との衝突で下獄した人々の家族に毎月100円ずつ贈った。九州の鉄山労働者を指導している浅原健三が毎月貰っていた金も、この印税の中から出た。
 大正10年11月には、『死線を越えて』の中篇『太陽を射るもの』が刊行された。これは、大正10年7月に争議で橘分監に入っているとき、破格の待遇を受けて、特に支給された蚊帳の中で書き始めたものである。中篇も上篇に劣らぬ売れ行きであった。
 賀川は、更に1万5000円を割いて、イエス団友愛救済所の確立のため、財団法人を組織した。友愛救済所で施療を受ける者は、1カ年5、6000人にのぼって、費用はかさむ一方であった。寄付金は少なく、『死線を越えて』が出る直前には、薬代の支払いにも困って、しばらくではあったが、休業するほどの窮乏であった。
 日本農民組合の創立費用も、創立後の幹部の俸給も、大阪労働学校の開校費も、『死線を越えて』の印税によって賄われた。消費組合運動のためにも多額の金が投げ出された。
 一世を風靡した『死線を越えて』が書かれた動機を、賀川に聞こう。
(続く=横山春一著『賀川豊彦傳』から転載)