『死線を越えて』の発刊(4)

 『死線を越えて』を書いた動機を話せとの御言葉ですが、困ってしまいました。明治40年の5月だったと思います−−−そうです、私が肺病で明石の病院から三河蒲郡の漁師の離れに移った頃、独りぼっちであまり淋しいものですから、私は小説を毎日書き綴ったのでした。誰も訪ねてくれる人はなし、知っている人というのは、村には誰もいないものですから、幻の中で過去の人間を小説として想い浮かべてみたのです。
 その少し前の年だったと記憶します。私は小説が書きたかったので、古雑誌の上に小説を綴ったことがありました。あまり貧乏で、原稿用紙が買えなかったものですから、古雑誌を原稿用紙代わりに使用したのでした。そんなに私が小説を書きたかった理由は、私の小さな胸に、過去の悲しい経験があまりに深刻に響き、私が宗教的になって行くことによって、非常に気持ちが変わって来たことを、どうしても小説体に書きたかったからです、書き上げた小説を、私は島崎藤村先生に一度見て頂いたことがありました。すると先生は丁重な手紙を添えて、数年間筐底に横たえて自分がよく判るようになってから、世間に発表せよといわれたのでした。
 その後肺病はだんだんよくなって、私は貧民窟に入りました。それから12年経ちました。12年目に改造社の山本実彦氏が、貧民窟の私の事務所にやって来て、その小説を出そうじゃないか、といわれたので、私は『死線を越えて』上巻の後の3分の1を新しく書き加えたのでした。
 その時に、前の3分の2の文章があまりにごつごつしていて拙いと想ったのですが、妙なもので、直そうと思えば、全体を直さなければならなくなるし、12年後の私の筆は昔よりよほど上手になっているようでした。けれども、何だか血を吐いた頃に書いたものは、ほんとに厳粛で、その頃の私の気持ちが最も真面目に出ているものですから、私は文章よりか気持ちを取りたいと思って、文章の拙いことは全く見逃すことにして、厳粛な血を吐いた時の気持ちを、全部保存することにしたのでした。そのために『死線を越えて』上巻の前半には、実にごつごつした所もありますが、加筆を許さない強い調子残っていることもまた事実であります。
 モデルのことですか? それは私の周囲の人々に聞いてください。私の心の生活をあれに書こうとした時に、モデルに就いてはいえない多くの事情があるのです。
 何時かも有島武郎氏がいっていたように、小説は小説であるけれども、事実以上の真実があるものだそうです。私も有島氏の流儀で、このあたりは許して頂きましょう。
 私は、あの小説を必ずし成功した小説だとは思いません。それが雑誌「改造」に出た時、あまりに拙いので自分ながらはらはらしました。ですから、本になった時に、あんなによく売れたのを、自分ながらも驚いたのでした。けれども今になって考えてみると、読者はやはり私が考えた通り、拙い文章を見逃してくれて、私が書こうと思った心の歴史−−−つまり心の変わり方−−−を全体として読んでくれたのだと感謝しているのです。
 私は、文章の拙いことを読まないで、心持ちの変わって行く順序に読んで下さる方は、私の最もよき読者であると、いつも感謝しているのです。それと共に私は、あの本を読まれた人の前には、頭が上がらぬような気がするのです。それと云うのも。あの拙い文章を辛抱して読んでくれ、その上私の心の生活を全部知り抜いた読者は、預言者のように、私を批判する力を持っているのであると、いつも思うからです。
 『死線を越えて』が150版を重ねた時、賀川は時勢の進運に伴って、ある部分の文字を削除したと思い立った。そして村島帰之が賀川の依頼を受けて全巻に目を通し、若干の添削を施した。
 昭和2年7月には廉価版が出版され、さらに昭和23年には、伏せ字や削除した箇所を埋めたものが出版された。
(続く=横山春一著『賀川豊彦傳』から転載)