一膳飯屋の天国屋開業(1)

 賀川が一膳飯屋「天国屋」を開業する気になったのも、病人の世話でなく、もっと積極的に貧民窟の人々うるおしたいからであった。マヤス博士に相談して、資金の調達もついた。
 賀川の住んでいる街の一町上の広い表筋に一件の店を借りた。開業の費用万端を賀川が負担し、もし利益があるならば、中村栄次郎が6分とり、残りの4分は、新川の貧民救済に使用する。損失があるならば、毎月の家賃8円と他に10円くらいまでは賀川が出してもよいという約束で、開店することにした。
 中村は元来、杉本法信と通称される「金筋」の坊さんであった。いつでも市中を廻り歩いて、何何寺の金堂を建造するからとか、何何講の発願で、何処そこに何何塔を建てるから、応分の寄付を頼むと言って金を出させ、それを全部自分の生活に費消していた。そういう男を無頼漢仲間では、金筋と呼んでいた。金筋は最も放胆なものがした。
 その中村が、賀川のところに出入りするようになって、今までの悪徳を恥じ、すっかり改心した。賀川のためならば、一命をすててもよいという覚悟を示し、有力な援助者となった、改心後は、耳掻き楊枝を削っていたが、不景気で注文がなく、食うに困るようになった。
 天国屋の経営をまかせられると、中村は、感激して準備に没頭した。表の格子から大釜、小釜、汁鍋、うどんの鉢、火鉢、十能に到るまで整えた。大きな茶椀100人分も揃い、紺地に白く「天国屋」と染めだした暖簾も出来た。
 大正元年11月18日から開店することにして、前日は東西屋に頼んで貧民窟をふれて廻った。開店の日は、朝の3時半から詰めかけて、2斗たいた飯が5時頃には売り切れて、また一釜たくという繁盛ぶりであった。
 天国屋は千客万来の賑やかさであったが、毎日の売り上げ金14、5円に対し、1円5、60銭は、無銭飲食であった。これでは薄い口銭の商売は成り立たない。中村は「すまない、すまない」とこぼしながらも、励んでいた。(続く=横山春一著『賀川豊彦傳』から転載)