一膳飯屋の天国屋開業(2)

 無頼の徒、植木屋の辰は、女房子供を育てることも出来ないで、幾度賀川の世話になったかわからないのに、中村の盛業振りを見て羨ましく思った。11月30日の夕方、辰は酒の勢いに乗じて、天国屋にどなり込んで来た。「100円貸せ、飯屋をはじめる」と言うのである。中村が5円紙幣を握らせて帰そうとしたところ、「5円の端金で商売が出来るかい? 人を馬鹿にしている」と腰をかけていた食卓からとび下りて、鉄の汁鍋を土間にたたきつけた。2、30人分の茶わんも木っ葉微塵に打ち砕いた。
 余勢を駆って、辰は大きな斧を振り降り、賀川の教会にあらわれた。辰は台所の板戸をたたき割って入り込み、障子と言わず、棚といわず、土瓶から釜から、テーブルまで、しっかり叩き壊してしまった。
 この物音に、裏の喧嘩安が、赤く錆びた刀を引き抜いて、裸体のままでとびこんで来た。賀川は2人の酔っ払いを喧嘩させては、どんなことになるかも知れないと思って、「安さん、わかった、わかった」と後から抱きついた。そこへまた、通称「秀」が、消防手の風体でとび込んで来た。辰は秀の止めるのもきかないで、表から隣の家へ廻ったかと思うと、下駄のまま教会に上がって、オルガンを叩き壊している。蓋は飛ぶ。鍵盤は散る。
 賀川は辛うじて喧嘩安を、家につれ戻して、引き返して見ると、二つの椅子を滅茶苦茶に壊し、三つ目の椅子にかかろうとしている。辰は賀川を見つけると、椅子をすてて、とびかかって来た。
「こら、青瓢箪!」
と、賀川の胸倉をつかんで、下駄ばきのままで腹を蹴る。秀は荒縄を持ってきて、辰をねじ伏せた。巡査が来た時には、辰は縛りあげられたまま、教会の入り口に、酔いつぶれていた。
「酔いがさめたら、本性に帰りますから、このままにしておいて下さい」
と賀川は言ったが、3人の巡査は辰を引き起こして、1人は辰の左の腕をもち、1人は右の腕をもち、後の1人は立つの首筋をつかまえて、引っぱって行った。
 辰は交番でも暴れるので、巡査は消防手を頼んできて、荷車の上に縛りつけて、本署に送ることにした。無頼の夫をもって、日頃から虐待の限りをつくされ、生傷の絶え間もない女房だが、荷車にがんじがらめに縛りつけられた夫の姿を見ては、4人の子供をつれて、荷車にとりすがって泣きくずれた。4人の子供も、わっと一度に大声で泣きだした。
 長屋の人々は、毎日天国屋に来て、満足していたが、天国屋の食い逃げは、相変わらず会計をおびやかしている。この損失を全体に割りつけるならば、どうにかやれないことはないだろうが、救済の意味を含めて始めた、この天国屋では、それも出来なかった。
 賀川は東京の貧民窟を研究しようと、上京して、下谷の万年町、深川の菊川町、四谷の鮫ケ橋、芝の新網、新宿旭町、市外日暮里の貧民窟などを視察した。帰って来ると、天国屋は休業していた、中村は、あのままではやって行けないといった。中村は、もとの家に帰って古手屋をしたいといった。
 中村がやめた後は、関東焚の商売をしていた出口という男が引き受けることになった。
「天国屋は儲けようと思えば、あきまへんよってに、一身を犠牲に供したつもりで、一つやらしてもらいまっさ」と、出口はいった。
 こうして天国屋は、開業して3カ月続いたが、とうとう閉じなければならなくなった。出口は、明治44年のクリスマスの晩、賀川の祈りによって、いざりが立つようになり、近所の人々まで教会に導いていたが、女房が病気で寝ている間に、人妻と姦通して、出奔した。天国屋はこの日から休業した。女房をとられたのは市役所につとめている人夫で、5つと3つの女の子をおき捨てにされ、気が狂うほど2人を呪うた。近所の人々は同情し、出口がキリスト教を信心していたので、今度はキリスト教を攻撃した。
 賀川は今更のごとく徳の足らぬことを悲しんだ。
 (横山春一著『賀川豊彦傳』から転載)