帝国経済会議に列して

 大正13年4月、政府は(大震災後の)日本経済をいかに振興すべきかを糾明するために、学界、財界の一流人を網羅して諮問機関を設けた。それは帝国経済会議とよばれ、賀川も末広厳太郎、福田徳三などとともにその議員になった。
 経済会議は永田町の首相官邸でひらかれた。
 当時の首相は清浦奎吾であった。賀川は、赤くさびたオートバイでのりつけた。
 顔合わせが簡単にすんで、ひろい廊下にお茶が用意されていた。そこで清浦内閣の閣僚と個人的に話をする機会が与えられた。法学博士の福田徳三は、神戸の大労働争議の時、賀川に好意を寄せた人であるが、会うのはこの時がはじめてであった。
 幾つも小委員会が設けられて、賀川は不良住宅地区改良委員会の委員となった。委員長は福田であった。
 委員の中には、前鉄道大臣、元台湾総督、日本石油社長、北海道炭礦社長などもいたが、これらの委員は不良住宅地区の改造といっても、全く見当がたたない様子であった。福田委員長は、賀川に意見をもとめ、立案を依頼した。
 賀川はただちに、立案の準備をすすめた。内務省社会局でも、賀川の『死線を越えて』『貧民心理の研究』、村島帰之の『ドン底生活』などからの引用文が多いパンフレットをつくって、委員会に提出した。
「六大都市の不良住宅地区だけを改造するのであれば、政府の方で2000万円もだしてくれるとよいと思う。六大都市の家屋の約一割が不良住宅と考えてよいと思うが、その不良住宅を全部一度に改造するとなると、相当な金がいる。内務省が2000万円、地方の自治体が更にいくらかの金をだせば、所謂貧民窟は改造出来ると思う」
 という賀川の案には、誰も異議がなかった。
 経済会議で、賀川の不良住宅地区改良案が採択されてまもなく、貴族院議長、徳川家達から、「貴族院の午餐会で貧民窟改造の話をしてほしい」という依頼があった。それで3月15日に「防貧策の科学的基礎」と題して講演した。講演のあとで、湯浅倉平と上山満之進の質問があった。どちらも真面目な質問で、急所をついていた。
 この不良住宅地区改良案は、昭和2年の議会に上程され、無事に通過した。そしてその第一の事業として、神戸の葺合新川に鉄筋コンクリート4階建の家屋が建てられ、イエス団の事務所に面した表道路は、24間幅に拡張された。