協同組合の先駆者(1) 岡田良一郎

 1839年(天保10)10月21日,静岡県掛川市(旧小笠郡倉真村)に生まれた。家は代々土地の庄屋をつとめ,父佐平次は二宮尊徳(別項)の報徳の教えを信奉して1848年(嘉永1)牛岡組報徳社をつくり、この地方への報徳結社普及のさきがけとなった。
 1854年(安政1)、彼は16歳で尊徳の門に入り、日光の二宮塾で親しくその教えを受け、のちに、いわゆる尊徳門下の四天王のひとりとなった。1860年(万延1)22歳で父のあとを継いで倉真村の庄屋をつとめ、1874年(明7)浜松県庁に勤務したが、翌年父の病気で辞任して帰農し、以後報徳社のために専念した。
 1877年(明10)私塾の冀北学舎を開いて子弟の養成に努め、翌年さらに掛川農学社を興して勧農産業教育に尽くした。ついで1879年(明12)佐野・城東両郡郡長に任じられ、翌年から県立掛川中学校校長を兼任した。そして1890年(明23)と1896年(明29)には衆議院議員にも選ばれた。
 1892年(明25)8月,掛川信用組合を創立したが、これは日本最初の信用組合で,静岡県はわが国産業組合の発祥の地となった。彼はかねて報徳社の教義とくに庶民の金融機関としての講の仕法から信用組合の創設に理解をもっていたが、たまたま当時の内務大臣品川弥二郎(別項)、法制局長官平田東助(別項)がドイツの協同組合をわが国にとりいれようとする意図をもっていたことから、彼や福住正兄(別項)らとこれを研究、これが信用組合法案の立案となった。
 しかし,1891年(明24)この法案は議会解散のため通過せず、このため彼は法的裏付けをまたず自ら翌年掛川信用組合を設立し、のちに〈産業組合法〉制定の端緒を開いた。彼はまた明治初年に農商業者の救済と富国策を論じた『活法経済論』をはじめ,現代報徳教科書といわれた『報徳学斉家談』、さらにわが国情に適した経済,協同の機関としての報徳結社の趣旨とこれによる信用組合普及の具体策を述べた『大日本信用組合報徳結社論』などの著作を残した。1915年(大4)1月1日没。