協同組合の先駆者(2) 品川弥二郎

 1843年(天保14)閏9月26日、山口県萩市椿東区船津(旧長門国椿郷松本村)に生まれた。少年時代に吉田松陰松下村塾に入り、その感化を受けた。
 明治維新に際し京都に潜入して、その推進に尽くした。1870年(明3)普仏戦争視察のためにヨーロッパへ派遣され、戦後、留学生および外交官としてドイツに滞在した。当時ドイツは資本主義の発展に応じて労働運動の発展があり、他方では、シュルツェ(別項)およびライフアイゼン(別項)の協同組合がそれぞれ発展期に入ったときで、彼は社会情勢および協同組合運動について学ぶところがあった。
 1876年(明9)帰国、内務省に入り、1885年(明18)まで内務省農商務省を通じて産業行政に従った。同年特命全権公使となりベルリンに駐在、帰国後宮中顧問官となり、御料局長を兼ねた。1891年(明24)松方正義内閣の内務大臣に就任した。
 同年11月、ドイツ留学を共にした平田東助(別項)の協力を得て信用組合法案をつくり、第2回帝国議会に提案したが不成立に終わった。信用組合法案提案の意図は、地方自治制度の実施に関連してその基礎を固めるため、国民の大部分を占める中産以下の産業発達を促すためであった。議会解散後の第2回総選挙における彼の選挙干渉が元老の間で問題となり、彼は引責辞職した。ついで政府与党を標榜した国民協会に入り、その指導に当たった。
 日清戦争の勝利を契機として産業資本が確立し、藩閥官僚と政党勢力の妥協が成り、国民協会は解散し、彼は政治運動から退いた。
 晩年彼が最も力を注いだのは、信用組合の指導奨励であった。信用組合法案の提案に関連して、1892年(明25)8月、岡田良一郎(別項)が静岡県下に掛川信用組合を設立し、同年9月、伊藤七郎平(別項)が見付町報徳社連合信用組合を設立した。
 この2組合が、わが国における近代的信用組合の先駆である。彼は国民協会の運動のかたわら、地方の有力者に信用組合の趣旨を平易に解説した手紙を送り、『信用組合提要』(平田東助と共著)を著し、ウォルフ(別項)の名著『国民銀行論』(柏原文太郎訳)を地方長官に贈り、信用組合の設立を奨励するなど種々な方法を講じた。
 彼の奨励が動機となって設立された組合は、報徳社関係組合をはじめ各地に分布し、地方における組合運動の先駆となったものが多い。たとえば、栃木県下傘松信用組合、北海道新十津川村貯蓄信用組合大阪府下如是信用組合東京府福生信用組合新潟県下大黒天信用組合などがある。1900年(明33)2月26日没。(奥谷松治)