協同組合の先駆者(3) 平田東助

 1849年(嘉永2)3月3日、山形県米沢市信夫町の伊東家に生まれた。藩医平田亮伯の養子となったが、離籍して別に一家を立てた。1869年(明2)藩の留学生として上京、大学南校(のちの東大)に入ったが、1871年(明4)ドイツに留学し、ドクトル・フィロソフィの学位を得、1876年(明9)帰国して内務省に入った。
 翌年大蔵省に移り、さらに太政官(内閣)の書記官を兼ねて法制局専任となり、1882年(明15)伊藤博文(1841〜1909)の憲法調査の渡欧に同行、帰国して文書局長となり、官報発行の道を開いた。ついで憲法の制定から発布、官制の大改正などの間にあって法制局参事官あるいは部長として奔走し、やがて貴族院議員に任じられた。1
 891年(明24)松方正義内閣の内相品川弥二郎(別項)により、わが国最初の信用組合法案が第2回帝国議会に提出され、議会の解散で成立はみなかったが、これはドイツで彼が品川の知遇を得たころからの宿願で、立法の衝に当たったのも彼だった。
 1900年(明33)第2次山県有朋内閣のとき、農商務省提出により〈産業組合〉(産組法)はついに成立公布をみたが、彼は法制局長官としてその国会通過に尽力し、また『産業組合法要義』を著して産業組合(産組)精神を説いた。そして翌年、桂太郎内閣の農商務大臣に任じられた。
 1905年(明38)、前年大臣を辞した彼は産業関係の中央官僚指導者を招いて大日本産業組合中央会の設立について協議し、役員、規約を決定して設立を了し、3月1日に設立趣意書を発表した。そして自らその会頭に就任し、事務所を自邸内において経費も負担し、会はここに発足をみた。以後毎年全国産業組合大会を開いて、常に議長として司会に当たり、あるいは産組の普及発達のため国内各地を遊説して回った。
 1908年(明41)法学博士の学位を受け、また同年7月には第2次桂太郎内閣の内務大臣に任じられ、1911年(明44)8月まで在任した。その間、1909年(明42)には、〈産組法〉の第2次改正にともない翌1910年産業組合中央会が発足すると、彼はその初代会頭に推されて1922年(大11)内大臣の任につくまで変わらなかった。
 彼は産組制度を創設した先覚者であり、とくにその後半生はこの運動の推進普及に傾倒した、日本産組の父ともいうべき人である。1925年(大14)4月14日没。(佐藤寛次)