賀川先生「卓上語録」(6) 田中芳三編

 自然療法
「先生、わたしは昔、胸が悪く、41人徴兵検査を受けて、38人甲種合格したのにわたしは丙種でした。それで私は先生のお書きになった"我が闘病"で療養生活をしました」
「君ね。人間の体の中にも、(1)創造(2)保存(3)修繕と三位一体の原則が働いているのだ。天地宇宙には、失敗したものを再びやり直す修繕の原理がある。これを宗教と云う。
 人間は、怒ったり、悲しんだり、心配したりすると血管が細くなり、血液の循環が悪くなる。そして病人はよけい悪くなるのだ。その反対に、喜んで、感謝して、任せ切った信仰の生活をすると血管が太くなり、自然血液の循環もよくなり、病気も自然によくなるものだ」(私の家で)

 1958年(昭和33年)
 正月2、3、4の3日間、西宮一麦寮で開かれたイエスの友冬期聖修会を終わり、4日の夕方、阪急電車で梅田駅に、タクシーでナンバ駅に出た。
「兄弟寒いナアー、ウドン食べようか」
 南海電車に1時間余り乗って和歌山市に、そこから小さい船に2時間半ゆられて、徳島県小松島港に夜遅く着かれるのである。
「先生、次の電車に乗っても船の出帆に間に合いますから、一電車待って、座って行きましょう」
「イイエ、僕は前進するのです。一歩でも先に行くのです。立って行きます」
(序ながら先生の渡航した数日後同じ船南海丸が、淡路島の南沼島沖で遭難、全員死亡すると云う事故があった)
 2月下旬は大阪市及び府下の伝道に廻られた。
「人間は"猿の進化したものだ"と人は言うが、僕はそうは思わん。120位の点で70位の類似点があるがね、後の50位は全然進化したものとは違う」
などと機嫌よく話された。(私の家に泊まられて)

 3月下旬は奈良県下を廻られた。馬見労祷教会で一ツのこんろを囲み、
「兄弟、スキヤキはおいしいね、遠慮せずにもっと肉を食い給え」
「先生、明夜帰京される寝台券が春で旅行者がとても多く、どうしても取れませんでしたので、鉄道電話で米子鉄道管理局の長谷川英雄兄にお願いして一枚都合して貰いました。列車に乗ってから賀川豊彦だと言って下さればわかると言っておりました」
「有難う、もつべきは友だね、僕はよい友をもって本当に幸福だ。有難いことだ。・・・」
 とても上機嫌、昔のよく怒った先生のへんりんすらなく、幼児のようであった。夜の伝道を終わって明朝は教育委員会出席のため、真夜中に神戸に着いた。
「先生! 堺川尻教会の飯島誠太郎牧師は一昨日亡くなったそうです」
「エ! 飯島先生が亡くなった! ああ惜しいことをした。僕とは神戸神学校からの古いよい友達であった。彼の病中一度も見舞ってやれず残念なことをした1」
と暫く黙祷を捧げられた。

 翌日、神戸YMCAでイエス団の理事会があり、とても上機嫌で理事長の役を果たされ、夜は大阪の桑原家庭集会で話された。
「桑原さん、僕の集会は床がぬけますからきをつけて!」
 当日は余り広くもない一軒の家庭に、250人も詰めたものだから、先生の予言の通り床が落ちてしまった。

 先生のお元気だったのは、此の時までではなかったか知ら−。此の頃から先生の健康が急激に衰えを見せ始めた。

 時は5月下旬、場所は大阪府布施市の一旅館。
「賀川先生、杉山元治郎先生の衆議院議員応援、誠に御苦労様です」
「僕は昨日、熊本の松前重義君(社会党)の選挙応援をして、今日此所にやって来た。これから3日間、杉山先生を助けようと思う。僕は今、心臓から血が出て困っている。ホンマに僕の心臓は可哀想な奴だ。チットもよう休めて貰ワンデ。心臓に同情する」

「つい此の間、天満教会で実に美しい出来事がありました。それは大阪教区総会の折り、紀州粉河の児玉牧師の"伝道50年の感謝と、第一線を引退されるについての慰労"の集いでした。列席者200名は一様に異常なる感激にひたりました」
「それは実に美しい話ですね。キリスト新聞はきたない話は一切載せないで、そう云う美しい話ばかりを載せることにしている。是非早く新聞社へ原稿を送って下さい」

 それから一週間後、先生はまた奈良県下の伝道に来られた。
「先生、来月は先生御夫妻の古希と、誕生のお祝いと、新川献身50年のお祝いがありますね−。それで私は先生のお祝い会の会衆者に先生署名入りの額皿を造って祈念にあげたいと思いますからサインして下さい」
「ヨシヨシ、君の言うことなら何でもきくよ−。僕は近頃、体が弱ったのでヤケクソ伝道をしているのだ」
 そして宿舎より100米もない王子駅までタクシーに乗った。

 それから1カ月経た7月、イエスの友夏期聖修会の為、大阪駅に降り立った。
「先生、少しの時間でよいですから、今行われている大阪クリスチャン・センターの超教派早天祈祷会にお顔を出して下さい」
「君達ね、僕は行き度いけれど、昨夜、東京で伝道集会して倒れ、そのままみんなに寝台にかつぎ込まれてやって来たので、今日は堪忍してくれ。その代わりもう10日程すれば、教育委員会の仕事でまたやってくるから、その時は奨励してあげよう」

 時は8月4日夜、場所は大阪駅ホームの端の荷車に2人で腰かけて(この朝、東京より、来阪、午後は神戸教育委員会に出席され、翌日は"世界宗教大会"に講演されるため再び東京に引き返された)
「先生は先般、"宇宙目的論"を出版されてから、ご自分の人生目的が終わったかのようにお考えになり、まるで死ぬことを障子をあけて隣の部屋へ行くくらいに簡単に考えておられます。ちょうどパウロがテモテ第二の手紙四章を書いた時のようなご心境ですね。"わが走るべき道のりを果たし・・・今より後、義の冠わがために備われり"。昔、先生は、ピリピ書はパウロが獄中で書いた書簡中最後のものだけに、彼の真の信仰があらわれていると教えて下さいました。それだのに先生はピリピ者をお忘れになっております。もう一度ピリピ書を拝読しましょう」と言って私はピリピ書一章を全部読んだ。

「明日も知れぬ獄中にあって"自分は死んでキリストの所に行きたいが、尚肉体に止まるのは汝らのために必要なりと考えて生きているのだ"とパウロは申しているではありませんか。どうか先生、身体を大切にして下さい。ただ生きてさえいて下されば、それだけで私達は大きな力であり、励ましです。大阪で先生に会えなくなるとも結構です」
 すると先生は両眼から急にポロポロと涙を流され、あの独特の柔らかい手で私の両手を握り、
「兄弟、有難う。君は天の使いだね。僕は今迄、随分エリヤを養った多くの鳥や、天の使い達に助けられて、沢山の事業を続けて来た。ありがたいことだった。でもね、僕はゆっくりと楽隠居は出来ないのだ! 少しでも伝道して死にたいのだ。そのことをわかって貰いたい」

(『神わが牧者 賀川豊彦の生涯と其の事業』田中芳三編から転載)