賀川先生「卓上語録」(7) 田中芳三編

 百三人の賀川伝
 先生は私の顔を見るなり、嬉しそうに
「今度、君の言い出しでキリスト新聞社から"私達の見た賀川豊彦"を多くの人から原稿を求めて出す事になった。面白いネ! こんなのは世界中未だ何処にもない」
「先生、それは違います。ルカ伝の初めには"−物語に書き連ねようと、多くの人が手をつけた"とあり、ヨハネ伝の終わりには"イエスのなさった事は、この外にもまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文章を収めきれないであろう"と書かれている聖書がありますよ」
「ハハハ君、面白いことを言うね。僕もキリストなみになったか?」
「私は先生のこれこれの話を書こうと思います」
「君、余り僕の悪口を書くなよ」(1959年1月二日、一麦寮で)

 最後の大声
 ズケズケ言いの桑原藤太郎画伯と先生。
 大きな声で
「先生、ジャマクサカロウけれど、もう2、30年生きとッテヤー」
「生きトラン」
「ジャー勝手にシナハレ。先に行ってエエ場所トットキヤー」
「ハハハこれには参った」(1959年1月2日、一麦寮で)

 コットウ品になり度くない
「先生、徳島の伝道は吉田牧師が代わりに行くと言っております。先生は淀川病院にでも入ってゆっくり静養せんと死んでしまいます。」
「僕はコットウ品のようになり度くない。死んでもかまわん。どうしても行く」
 高松のルカ病院で
「僕は君の顔を見たくない」
と云って上の蒲団を引っ張って顔を隠し、
「それ見よ。行くなと云うのに人の言うこときかんから、こんなことになった、と云われるのが恥ずかしい」
(1959年1月6日、一麦寮と1月23日、ルカ病院で)

 家は要らない
 高松ルカ病院の一室、時は1959年3月12日。
「先生、東京にお帰りになっても足が不自由では二階の上がり下りは大変です。ゆっくり休養される平屋を一部屋建てさして下さい」
「純基が改良して階段をつけている筈だから要りません」
「先生、弟子達が親孝行したいと言っているのですから受けて下さい」
「要りません。キリストは何と云ったかね。人の子は枕する処なしとね。僕も伝道して道の端で死んだら本望だ」
「先生、人の好意は受けるものですよ」
 語気を強めて、首をふりながら
「受けません。要りません。金田先生、杉山君(健一郎氏)と大川君と、田中君とに要らんと云ってくれ給え」

 ノーベル平和賞
「先生のお父さんはトルコから勲章を死に際に貰われたそうですが、先生は元気になってノーベル平和賞を貰いナハレヤ」
「君等は僕が死ぬと思って来たのやろ。でも僕はまだ死なんよ。僕ののどには鶏が一わ居るのだー」
 奥様が説明して
「主人は喉が鶏が鳴くようにコロコロなっていると云っています」
「先生、大方国雄氏は先生の録音を持って伝道に回っております。安心してゆっくり休養して下さい」
 奥様は傍らで
「有難いことですね。皆さんのお陰で主人は寝ていても伝道出来るのですから・・・」
紀州の児玉牧師は『賀川先生の為、一日も忘れず祈っていると伝えてほしい』と申しておられました」
「今度こそは本当に皆さんのお世話になりました。本当に有難いです。感謝です」
(1960年3月20日、松沢の病院で)

 二枚折りの屏風
「奥さん、何か書いてあげましょうか」
 毛筆をもって屏風の前に立たれた賀川先生、ほほえみながら
「絵をかきますよ」
「聖句をネ」
「奥さん、私の絵はヘタと思っているんですネ」
「・・・・・・」
 筆は、もう屏風の上を走っている。西阪夫人は息をのんだ。
(1930年10月14日、西阪宅で)

(『神わが牧者 賀川豊彦の生涯と其の事業』田中芳三編から転載)