中ノ郷質庫信用組合の初代組合長となった田川大吉郎
田川大吉郎(1869-1947=明治学院総理、中ノ郷質庫信用組合初代組合長)
明治2年、長崎に生まれ、20歳で早稲田大学の前身東京専門学校を卒業。18歳のころから筑水生のペンネームで報知新聞に論説を書き、矢野龍渓に認められて大学卒業後、同社の論説記者となり、以降30年間、各種の新聞の主筆として活躍した。また明治41年、長崎県より、衆院議員に当選、のち選挙区は東京に移ったが、爾来当選8回におよんだ。
明治28年、27歳で結婚したが、そのとき3カ条の誓約をした。
1.基督者として信仰生活をおくること
2.貧苦に安んずるの覚悟を堅固に保つこと
3.自分は国事に身を委ねるものであるから、或いは獄に下ることがあっても、少しも狼狽せず怯れず色をも動かさぬほどの嗜あらんこと
いずれもキリスト者としての信仰にたち、主義を貫くことによっておのずから起こってくるかもしれない事態に対する信者の覚悟であるが、実はこの誓約がその後の生涯の事実となった。
明治35年ごろ、社会問題研究会をおこし神田青年会で連続して演説会を行い、当時最もやかましかった鉱毒問題を論じた。また尾崎咢堂翁と一緒に軍備縮小同志会を結成して日比谷で演説会を開いたとき、これを圧倒しようと聴衆席をうずめ尽くした陸海軍人に対して軍部攻撃の演説を行った。大正6年には元老院山県有朋攻撃の文章を二、三の雑誌に載せたため不敬罪に問われて翌年入獄、日支事変中に再び不敬罪で起訴され、反軍思想家として当局より迫害を受けた。
不屈不撓の正確がよくあらわれている実話であるが、大正4年7月、司法省参政官になったとき、時の法相尾崎行雄が当局に命じて司法省の危険人物リストを提出させたところ、尾崎法相は第三クラス、田川は第二クラスの筆頭の欄に載っていた。尾崎法相は命じて自身の名を抹消させたが、田川はあえてこれをしなかったといわれる。
田川はまた明治学院総理としてキリスト教育英事業に熱心で、社会事業、社会運動にも深い理解をもっていた。同学院に大学としていち早く社会科を設置し、また日本神学校における「社会問題口座」では連続キリスト教社会運動史を講じたことは、いずれもキリスト教的立場から社会運動への関心を示したものである。この講義はのちにまとめられて『社会改造史論』として昭和12年に教文館から出版された。その他の著述について年代順に記すと、大正9年『英国の王室および議会』(警醒社刊)、昭和4年『政党および政党史』(政治教育教会刊)、昭和13年『国家と宗教』(教文社刊)、昭和17年『聖書と論語』がある。
学者肌でもあり、教育者でもあり、そして清潔な政治家でもあった田川は、若いころから日支親善に尽くしたいとの希望もあり、その資格ありと自認していたので、晩年は上海ですごし日支平和工作に努力したが、その途中で終戦となったので内地へ帰還した。帰還後、衆院議員選挙で当選したが、病が重く1日も登院することなく、昭和22年、79歳で世を去った。
臨終に近づき枕頭にあった近親者に、
「私は肉の父の外に霊の父を与えられて嬉しい。私の一生のなかでいちばん嬉しかったのは洗礼を受けたときである」と遺言した。
田川が当組合の創立当時、初代組合長に就任した事情は、賀川と信仰上においても社会的活動においても密接な関係のあったことによるのはいうまでもないが、また賀川が明治学院(当時、田川が同学総理となっていた)の卒業生であることも関係があったといわねばならない。木立が田川を明治学院に訪ね、当組合の設立者として、また組合長として就任を願ったところ、快く言下に引き受けられたのであった。
組合長在任期間 昭和3年6月14日〜昭和20年12月3日
【中ノ郷信用組合五十年史、1979年から転載】