80年前に協同組合を世界に問うた日本人(1) 伴 武澄

 80年前の世界恐慌のころから、協同組合的経営の重要性を世界に問うていた日本人がいた。賀川豊彦。神戸・新川地区のスラムで貧しい人々と15年一緒に暮らした。日々の貧困と闘いながら、救貧の必要性を説き、防貧の対策を考えた。その末にたどりついた結論が「協同組合」だった。
1929年の恐慌はニューヨーク株式市場の崩壊をきっかけに世界の政治・経済を混乱の極みに陥れた。誰の目にも資本主義が強欲であることが分かった。その一方でソ連は崩壊する資本主義諸国を尻目に、社会主義を掲げて驚異的な経済成長を遂げつつあった。しかし、ソ連社会主義は暴力革命を基礎にしており、国家的暴力もまた世界を恐怖に陥れていた。賀川が提唱した協同組合的経営は資本主義の行き過ぎを牽制しながら、社会主義的要素を取り入れる手法だった。
賀川は自ら生協をいくつも経営しながら、理論書としていくつかの「協同組合論」を書いた。最も有名なのは1936年、ニューヨークのハーパー・アンド・ブラザーズ社から出版された『ブラザーフッド・エコノミクス』である。英語の他、フランス語、ドイツ語など十数カ国語に翻訳されて、“エコノミスト”としての賀川の名を高めたが、どういうわけか日本語にだけは翻訳されていない。
ブラザーフッド・エコノミクス』は恐慌後の経済立て直しに悩むアメリカ政府の招聘により渡米し、ニューヨーク州ロチェスター大学のラウシェンブッシュ講座で行った連続講義がそのまま出版されたものである。このとき、賀川は6カ月で全米48州、148都市を廻り、500カ所以上で講演し、約70万人のアメリカ人が賀川の肉声を聞いたという。
賀川豊彦の名は日本では、ベストセラー『死線を越えて』の作家としても、世界的な社会事業家としても忘れ去られているが、海外ではまだキリスト教社会の中で生き続けている。2007年にはオーストラリアでテレビ放映されたドキュメンタリー映画フレッチャー・ジョーンズ物語」では賀川の協同組合論が大きく取り上げられていたのは記憶に新しい。