80年前に協同組合を世界に問うた日本人(2) 伴 武澄

 ニューラナークの購買部

 賀川は単なる理論家ではなかった。1910年代末、神戸のスラムから労働者に団結を訴えた。鈴木文治らが東京で結成した「友愛会」の関西支部として1920年に「友愛会関西労働同盟会」を結成し、翌年、三菱・川崎造船所の労働者を組織して一大争議を巻き起こした。・・万人の労働者をストライキに巻き込んで、造船所の操業を止めてしまったこともある。労働者の防貧策の一環としてその中から1921年に生まれたのが「有限責任神戸購買組合」(神戸消費組合を経て現コープこうべ)である。1920年に大阪に「有限責任購買組合共益社」をつくっていたから、賀川にとっては二つ目の生協である。
 生協は1844年、イギリスのマンチェスター近郊のロッチデールで生まれた。生協の原型をつくったとされるロバート・オーエンはスコットランドのニューラナークで繊維工場を経営する傍ら、従業員のために工場内店舗を設けた。当時の商人は今から考えると相当にあこぎな商いをしていた。オーエンによれば、村の店で売っていた商品は「高くて品質は劣悪だった。肉であれば骨と皮に毛の生えた物ばかりだった」。村人は他に店がないことをいいことに、高くて劣悪な商品を買わされていた。しかも多くの商品は掛け売りだったから、村人の借金はかさむばかりだった。
 そうした状況は100年前の日本も同じだった。日本の文学にはそうしたあこぎな商売というものはあまり出てこないが、賀川の多くの小説には貧乏人が労働を通じて搾取されるだけでなく、購買を通じても大家に見合った商品が販売されていないことがこと細かく書かれている。
 オーエンのニューラナークの工場内の購買部では「生活の必需品と生活のぜいたく品、そしてお酒も必要」と考えられた。お酒についてオーエンは比較的寛容だった。酔った状態で勤務することは当時の工場では自殺行為に等しかったが、適度の飲酒は生活のぜいたくの一つと考えていたようだ。
 1913年の記録によれば、ニューラナークのオーエンの購買部は工場敷地のほぼ真ん中に三階建ての店舗を設け、工場経営者としての地位を利用して卸売りから安く大量に仕入れ、村の店のほぼ二割安の価格で販売した。販売したのは食料や調味料、野菜、果物だけでなく、食器やせっけん、石炭、洋服、ろうそくなど何でもあった。現在のスーパーの原型のような店舗だったようだ。
 ニューラナークでの賃金は他と比べて高いというわけではなかったが、当時、村を訪れたロバート・サウジーという人の報告によれば「一家で週2ポンド(40シリンブ)稼いだとしてニューラナークで住むことによって10シリングほど生活費は安くてすんだ」そうなのだ。オーエンはお金の価値を高めただけではない。購買部での利益を児童教育につぎ込んだのである。
 当時の多くの紡績工場では単純労働が多く、安い賃金で雇用できる子どもたちが労働力の中心だった。子どもといっても6歳だとか、7歳の今でいえば小学校低学年の児童も含まれていた。オーエンは10歳以下の児童の就労を禁止し、彼らに読み書きそろばんの初等教育をさずけたのだった。
 工場に残る1816年の記録では学校には14人の教師と274人の成都がいて、毎朝7時半から夕方5時までを授業時間とした。家族そろって工場で働いていた時代であるから、学校に子どもたちを預けることになって両親は家庭に気遣うことなく労働に専念できるという効果もあった。
 ロバート・オーエンは空想的社会主義者とも揶揄されるが、義務教育などと言う概念すらなかった当時のイギリスで、行政に代わって企業が「教育事業」を行った点でも画期的な発想だったといえよう。
オーエンの発想のすごさは「劣悪は生活環境下では不平を抱いた効率の悪い労働力しか生まれない」という考えを200年ほど前にすでに打ち出していたことである。19世紀の弱肉強食の時代に「優れた住環境や教育、規則正しい組織、思いやりある労働環境からこそ、有能な労働者が生まれる」(『新社会観−人間性形成論』)という確信に達し、自ら実践していたのだから驚くほかはない。