賀川豊彦100年、「友愛の経済」に学ぼう【日本農業新聞】

 5月1日、日本農業新聞に嬉しい論説が掲載された。「生協や信用組合など今日の協同組合運動の中に、その思想は引き継がれている。のみならず一般の保険に対して唱えた協同組合保険の意義、当時の救貧と今日の失業・貧困対策など、相互扶助の組織である協同組合は、賀川の思想から学ぶべきことが多い」と賀川イズムを最大限に評価しているだけではない。「手近なことからでよい。『献身100年』を機に、JAも独自の催しで賀川の精神を振り返りたい」と結んでいる。

 今回の献身100年はコープこうべを筆頭に日本生協連、東京都生協連など多くの生協組織に依存するところが大きい。これにJAが加われば鬼に金棒である。以下、農業新聞の論説を転載する。

 賀川豊彦100年、「友愛の経済」に学ぼう
 http://www.nougyou-shimbun.ne.jp/modules/news1/article.php?storyid=893
 大正・昭和期のキリスト教社会運動家で、生協やJA共済事業の生みの親とされる賀川豊彦が、生涯の活動の原点とした神戸の貧民街に身を投じたのは、1909年の12月、21歳の時だった。100年目となる今年、関係する組織や機関が多くの記念事業を行っている。競争優先の経済が行き詰まった今日、「友愛の経済」を唱え、協同組合思想の中にその実現を託した先駆者の思想をひもとくことは、協同組合運動をあらためて考えるよい機会である。

 神戸で苦難の救貧と伝道活動を続ける中で、賀川は慈善事業の限界に気付き、貧しさをなくすのは「救貧」ではなく「防貧」であることを知る。労働運動や農民運動にかかわる中で、自立・自治の精神に基づき、教育・経済的活動を基本とする協同組合組織の必要性を唱えた。その後、大阪、東京での信用組合や生協の設立、協同組合保険のための産業組合での奮闘は、この神戸での取り組みが始まりだった。

 賀川は、現在のJA共済の生みの親でもある。協同組合による生命保険事業の必要性を訴え、戦前、産業組合による保険会社の買収を提案したが実現しなかった経緯がある。戦後、さまざまな経緯があったものの、協同組合における保険事業は、農協による共済事業として実現し、全国組織として1951年の全共連創立となった。産業組合の指導者だった千石興太郎や有馬頼寧などの理解と協力があったが、農協共済の実現は、賀川の思想と行動力によるところが大きい。

 JA関係者の中でもこのことを知る人が少なくなった。世界的にも知名度の高い宗教家、思想家、社会運動家である賀川の全体像をつかむことは簡単ではないが、生協や信用組合など今日の協同組合運動の中に、その思想は引き継がれている。のみならず一般の保険に対して唱えた協同組合保険の意義、当時の救貧と今日の失業・貧困対策など、相互扶助の組織である協同組合は、賀川の思想から学ぶべきことが多い。

 生協、JA、信用金庫、大学、各種労働者組織など幅広い組織、機関が記念事業を展開している。「賀川豊彦献身100年―平和・人権・共生」をテーマに、東京と神戸でそれぞれ講演会、シンポジウム、ベストセラーとなった「死線を越えて」の上映会などさまざまな催しが計画されている。 

 著書は、宗教、社会思想、文学など150冊を超え、東京、神戸、徳島(鳴門市)には記念館や展示室などがある。また、条幅をよく書き、含蓄のある言葉を多く残している。同じ時代に活動した協同組合の指導者の自宅、連合会の書庫などに眠っている条幅も少なくないと聞く。手近なことからでよい。「献身100年」を機に、JAも独自の催しで賀川の精神を振り返りたい。