伴武澄講演「海外の賀川」2008年7月12日神戸

  • 賀川豊彦講座「海外の賀川豊彦
  • 講師:伴 武澄氏
  • 日時:平成20年7月12日
  • 場所:神戸市の賀川記念館3階集会室


 司会 皆様こんにちは。暑い中、お出でいただきまして、ありがとうございます。
 この賀川記念館、昭和38年から活動しておりますが、ご存じの方もおありかと思いますけれども、この9月で解体をしまして、立て替えを予定しております。その中で今後の活動を模索しながら、いろんな方に講座を開いていただいているのですが、今日は伴武澄さんに東京からお越しいただきまして、賀川講座ということでお願いいたします。この建物としては、最後の講座になるのかもしれませんが、よろしくお願いします。
 伴さんは、共同通信社でずっと勤務をされています。またお話の中で出てくるのかもしれませんが、青年期に外交官のお父さんと一緒に、世界各国で生活をされた中で、南アフリカアパルトヘイトの中での有色人種としての自分、いろんな差別なども受けた中でのいろんなことが現在の活動の基本的な部分になってるのかなと思います。
 賀川豊彦が戦後、国際平和協会の責任者になるんですが、現在国際平和協会の会長としてご活躍をなさっております。どうぞよろしくお願いいたします。
  皆さん、こんにちは。お暑い中、今日は本当にありがとうございます。今、ご紹介いただきましたように、私は共同通信の新聞記者を長年やってきました。縁があって、財団法人国際平和協会の会長でもあります。
 賀川豊彦に関しては全くのど素人でした。国際平和協会に入ってから、「こんな日本人がいたんだ」という驚きの連続で、今、実は勉強中です。勉強中の者が皆さんの前でお話するのはおこがましいと思いつつも、僕だけが体験したこととか、最近知ったおもしろい話などをいくつか織りまぜながら、賀川豊彦という人物が世界的にどうして有名になったのかという話をしたいと思います。
 まず最初に、国際平和協会というのをご説明します。90年代から事業らしいものをほとんど途絶えて、つぶれる寸前の財団でした。再建の最中ですが、どうしてこれを存続させなきゃいけないという思いがあります。機関誌だけは年に1回発行しています。去年のものが皆様のお手元にあると思います。見開きの右側に、国際平和協会について説明があります。賀川豊彦は戦前からいろいろな事業をやってきました。結果として、多くの社会福祉法人であるとか、財団法人がつくられています。多くが存続しています。銀行(信用組合)もあれば病院もあるし、例えばリズム時計なんて時計会社までつくってしまった方です。
 これらを一つひとつ話すだけで、それぞれに1日かかるんじゃないかと思うような膨大な仕事を、70年の人生の中でやってきた方だと思っています。その中の一つが、国際平和協会でした。日本が戦争に負けた直後に、終戦内閣から引き継いだ東久爾稔彦殿下が総理大臣になられた時に、有識者を集めて、日本の戦後のブランドデザインを描いてほしいということで、賀川豊彦が呼ばれました。賀川はその中の一人として、世界平和のために何ができるかということを考えているんですね。国境なき社会をつくるしかないということを考えまして、世界連邦をつくらなきゃいけない。世界連邦をつくるために、この財団が生まれたということです。
 ここに出てくる初代の理事たちは、皆様にはなじみのない名前かもしれませんが、当時としては燦然と光り輝く人たちばかりだったわけです。当時の閣僚クラス以上の方々が理事として参集して、この財団をつくった。それだけ期待が込められていた財団だったと思います。そういう財団をまずご紹介しました。
 賀川のことを、この5、6年ずっと考えています。「本を書きたい」という気持ちもあるんですが、なかなか書けない。先日も、ある出版社の人から「まだか」と催促されました。「来年、賀川献身100年じゃないか、間に合わないぞ」とせっつかれていますが、どうしても書き出せないのです。
 書けない理由の第一は、賀川があまりにも多くのことをやりすぎているからです。一つのことだけ書くわけにいかない。かといって、全部を書くと総論的になって、おもしろくも、おかしくもないということで、まだ逡巡しています。最近ようやく気がつきはじめたのは、テーマとして、海外でどうしてこんなに有名だった人が日本で有名でないのか。そこら辺に絞り込んで書いていけないかということです。
 賀川豊彦は、僕自身にはどうしてもかなわない。絶対に賀川にはなれない。おこがましいんですが、理由が二つありますね。一つは、スラムに入っていって、スラムの貧しい人たちと喜びや悲しみをともにした。入ること自体大変だと思います。南京虫とともに暮らさなきゃいけない。言葉は悪いですけれども、あまり質がよくない人たちがいた。かっぱらい、人殺し、売春婦、その他がたくさんいた中で暮らす。もう一つは、その人たちと共感をしなきゃいけない。喜びを分かち合ったり、悲しみを分かち合わなきゃいけない。これもまた難しいことだと思います。これが並の人にできるのか。
 もう一つは、その後の賀川なんですが、世界に向けて、自分の考えを指摘して、世界はこうあるべきだ、地球はこうあるべきだ、実は宇宙はこうあるべきだということまで、彼は主張し続けて、しかもそれをしゃべったことが、書いたことが共感を得たということだと思います。これもなかなか難しい。
 戦前に日本から、日本のことや、みずからのことを発信した人は3人しかいないと思っているんですが、一番古いのは岡倉天心だと思います。日本の美術を世界に紹介し、東洋の美術を世界に紹介し、「茶の本」とか、アジアは一つであるという「アジアの理想」とか、そういう本を書いた方ですね。もちろん英語で全文書かれている。もう1人は新渡戸稲造さんだと思います。この方は説明する必要もない。日本の一番大切な心を英語で発信した方なんです。多くのアメリカの政治家がそれを読んでいた。
 この間、前の首相の小泉さんがインドネシアか何かの会議で、アジアのある首相に、その「武士道」の話を持ちかけられた時、非常にうれしかったと。本人は読んだことがあるのかどうかわかりませんが、ということようなこともありました。ということは、現代でもそれが読み継がれているということだと思います。日本の心を理解するために、まず「
武士道」という本を読まなきゃいけないんだというようなことになっていると思います。
 賀川の場合は、日本のことだけじゃなくて、世界のこと、宇宙のことまで発信した。レベルは二つ、三つ上ではないかと思います。共感を得たということを、これからお話していきたいと思います。
 レジュメをつくったんですが、順番にはいかないかもしれませんが、最初に僕が「あっ、これはすごいな」という話に出会ったエピソードを、お話ししたいと思います。
 もう4年も前なんですが、スコットランドグラスゴーというところに行ってきました。初めてですが、どうして行ったかといいますと、そこに「賀川、賀川」と言っている牧師さんがいるということを友人から聞きました。ここにも彼が書いた文章が入っていると思いますが、そのアームストロングさんからいただいたメッセージも中に入っています。読んでいただくと大体わかるんですが、僕はびっくりしまして、70過ぎで病身であるとい
うことで、ぜひとも会っておかなきゃいけないということで、2カ月後に行ったんですね。
 グラスゴー大学で会いまして、彼は子どものころ病気をした。患った時に、私には入院したと説明したんですが、この文章では入院する時に、本は何冊か父親の書架から持ち出して病院に行ったんですが、その中にどういうわけか「Kagawa」という本があった。これを読んで病身の彼は震えるような喜びに浸った。こういう人間がいるんだと。自分もぜひこういう人間になりたいと思った。それで僕は牧師になったということなんですね。一人のイギリス人を動かした人間がいたということだけでも、偉大なことだと思う。
この本は、アキセリングという人が、この人も宣教師で日本に来ていましたが、書いた本。1932年に世に出た本で、9カ国語に翻訳されたそうです。アキセリングの本の序文に書いてありました。英語のほかに、フランス、ドイツ、オランダ、スカンジナビア、トルコ、メキシコ、インド、中国語にも翻訳された。さっき言った「茶の本」とか、岡倉天心の本は何カ国語に訳されたという話はあまり聞いたことがないんですが、ほとんど世界の主たる言語で翻訳されている。この時、賀川はまだ四十数歳なんです。四十数歳で伝記が書かれるなんてこと自体がすごいことだと思いませんか。
 スコットランドの牧師さんはアームストロングさんというんですけれども、私が行った前の日に「昨日来ればよかったのに」。実はそれを目指していたんですが、仕事の関係で行けなくて、グラスゴー大学で賀川のシンポジウムを開いたという。40人ぐらいしか集まらなかったけれども、賀川にゆかりのある人、生前に会ったことがある人、あるいは賀川から影響を受けた人に対して、インターネットとか、キリスト教の国ですからキリスト教の新聞があるんですね。これを通じて呼びかけたら、それこそ 100人にのぼるような人から反応があった。
 一番僕が感動したのは、ある老齢の女性のことです。その人は看護婦さんで修道女として若いころ仕事をしていた時、グラスゴーに賀川さんが来た。1950年代にイギリスを訪問していますから、その時のことだと思うんですが、彼女は草取りをしていた。そうしたらつかつかと寄ってきて、私の手をにぎって「ごくろうさん」とか何か言ってくれた。そのことがずっと私の思い出になった。あの大賀川に手を握ってもらった。そういう話を、そのシンポジウムでしたらしい。ほとんど神様のように言っていた。
 そのころの新聞を調べましたら、スコットランドの新聞に、「賀川リターンズ」と書いてある。ということは、もう一度来たということですね。その前に訪英したのは、1936年ですから14年前です。新聞記者たちが覚えていて「賀川リターンズ」と見出しに出したんで、「おお、すごいな」、「戻ってきてくれた」ということですね。
 スコットランドしか話してませんけれども、イギリスの新聞にそのように書かれるような人物だった。ますます賀川というのはすげえなあと思わざるを得なくなりました。
もう一つ、エピソードを話します。最近は東京の松沢にある賀川資料館によく出入りしています。1カ月半ぐらい前、学芸員の方が「伴さん、こんなDVDをもらったんだけれども、ちょっと見てください」というのです。
 オーストラリア人がつくった「フレッチャー・ジョーンズ・ストーリー」という、1時間ほどのドキュメンタリーでした。フレッチャー・ジョーンズは、オーストラリアでは戦前からある有名なアパレルメーカーで、「どんな人でも、どんなサイズでも、どんなおなかが大きい人でも、うちのズボンは合います」というのが売り物でした。ジョーンズは第一次大戦のヨーロッパ戦線に従軍して大変な目にあっています。生き残って帰ってきたんですが、ろくに学校も出ていない人なんです。ずっとやりたかったのがテーラーでした。テーラーから身を起こして、アパレル企業をつくります。オーストラリアでは誰もが知っているメーカーに成長しました。
 1929年の大恐慌の時、ジョーンズの会社は無事だったんですが、世の中、まわりがどんどん貧しくなっていく。資本家はもともとお金があるから、大した打撃じゃないんです。しかし、貧しい人たちがどんどん貧しくなっていくさまを見て、これは経済を変えていかなきゃいけないとか、企業の経営も変えていかなきゃいけないということを考えます。彼は中学校も出ていない身でありながら、いろいろな経済書を読み、経営書を読んだ。その中に、実は賀川の本が1冊あった。これでジョーンズは雷を受けたように「これだ」と確信します。内容は「協同組合的経営」に関するものでした。
 たまたまなんですけれども、1935年に賀川豊彦がオーストラリア伝導に行くんですね。メルボルンに来た時に、ジョーンズはどうしても会いたいと面談を申し入れて、賀川に会います。その中で質問するんです。「私は金持ちになっていた。自分の稼いだ金は全部捧げないと神様に救われないんでしょうか」というようなことを言ったそうです。そうしたら賀川は「いや、そんなことはない。神様が望むように、あなたが使えばいいんだ」ということで、ホッとしたと。
 翌年、彼は日本に来る。本当に賀川は協同組合的経営をやってるのかどうかを見に来るわけです。5カ月日本にいて、観光旅行もしたはずです。賀川はそのころ神戸ではなく、関東震災後に本所で大々的なセツルメント活動をやっていました。ただコープショップがあるだけじゃなくて、そのまわりに学校や保育園があり、医療があり、質屋があり、全人格的な経営を行っているということに感動します。帰国してから、僕の会社は株式会社じゃだめだ、コーポラティブにするという決意をして、実際そうやってしまう。自分の会社の株はほとんど自分が持っていたんですけれども、7割以上従業員にあげてしまう。
 フレッチャー・ジョーンズは10年ぐらい前までは健全に経営していたんですが、さすがに中国の安い衣料品がどんどん入ってきて、ほとんどつぶれた状態に今なってます。このドキュメンタリー、フレッチャー・ジョーンズの物語の1時間の間の1割以上が賀川に触れているんですね。これはオーストラリアで去年の9月にテレビ放送されているんです。
 どれぐらいの人が見たか、視聴率がどのぐらいあったか知りませんが、すくなくとも 2,000万の国民のうち数%は見ていただろう。50万の人が賀川を見て、「何だ、この人は」と思ったのか、もうすでに賀川を知っていたかもしれません。それぐらい賀川は有名ですから、「やっぱりそうだ、賀川はすごい」と思ったかもしれない。僕はその場にいませんから、オーストラリアにもぜひ行ってみたいなと思うんですが、なかなか機会がない。
 神戸で言えば、かなり賀川の知名度は高いし、コープこうべとかイエス団とか、賀川がゆかりの活動がたくさんありますから、新聞に載る機会もあるでしょうけれども、東京でははっきり言って100人中一人も知らないなんていう状態が多い。日本人が知らない賀川をオーストラリアの数十万が去年の9月見ておるんですね。これにちょっと驚きました。プロデューサーはスミスという人なんですけれども、「次につくりたいドキュメンタリーが賀川豊彦なんだ」と言ってるそうなんです。何か力になれたらいいかなと思っております。
 私が最近感じた話はそれだけなんですが、後は歴史的な話をしたいと思います。レジュメの1ページに書いてありますが、彼は1914年に初めてプリンストンに留学します。これもキリスト教の恩師たちの力添えによって実現します。片道の切符だけをもらって、授業料は免除されていましたが、非常に貧しい生活でアルバイトをしながら、3年間アメリカで過ごした。彼はその時に、アメリカで労働組合運動があるのを初めて知ります。多分労働組合運動だけじゃなくて、アメリカのいろんな様子を吸収したんだと思います。
 すごいのは、帰ってきてから、また新川に戻るんですね。アメリカの優雅な留学生活、金銭的には苦しかったかもしれませんが、きれいな芝生のキャンパスの中で、寄宿舎も多分きれいなシーツがあって、伝染病などからほど遠いような生活を3年間したあげく、帰ってきて、また翌日から新川に入って、貧民救済が続けられるというのは、よっぽどの決心がないとできないことだろうと思います。彼はアメリカに生涯5回行ってます。そのうち3回はヨーロッパも回っています。ですから、一ぺん行くと8カ月戻ってこない、そういう生活をしていました。
 賀川が2回目にアメリカに行くのは1924年。この時もヨーロッパに帰りに寄っています。全米大学連盟の招待でした。賀川はもうすでにアメリカで著名人でした。どうしてかといいますと、賀川の貧民窟での活動と、もう一つ、川崎造船、三菱造船のストライキを指導したという二つの理由で、宣教師たちがキリスト教系の冊子に賀川のことを多く紹介していました。アメリカの「Christian Century」などかなりよく読まれている雑誌に賀川の記事がよく出てきています。
 スイスの個人がつくってた雑誌「New  Wage」でもたびたび紹介される。フランスの「La Solidarite」というキリスト教の雑誌でも紹介される。賀川は日本人というより、すごいキリスト教徒ということで紹介されたのだと思います。
多分キリスト教系の新聞は、日本と違って結構幅広く読まれています。多分みなさんは知っていますか? 世界で一番、発行部数の多い雑誌は「National Geography 」といいます。写真のきれいな雑誌で毎月出ています。「Natioal  Geographic  Society」というアメリカの財団が百数十年にわたり発行しています。最初は地理誌だったんですけれども、歴史とか含めた写真がものすごくきれいな雑誌で、これ 1、000万部出てるんですね。世界の名だたる図書館には全部ありますけれども、日本の名だたる図書館にはほとんどありません。
 5、6年位前から日経新聞が日本語版で翻訳した「National Geographic」というのを出しているので、これを買っているところはあると思いますが、英語版を持っているところはほとんどないと思います。こういう雑誌があるというのを我々が知らないと同じように、キリスト教の雑誌や新聞というものが数百万部単位で発行されているんだろうということを知らないでいます。
 例えば、ニューヨークタイムスは有名だからといったって、40万部、50万部しか出ていない。朝日や読売と全然違うんだよと。その違う系統の雑誌は百万単位で出ているんだと思います。そういうのを日ごろ家庭にあって、大人も子どもも読んでいる。図書館に行けば必ずある、教会に行けば必ず置いてあるような雑誌、新聞がある。皆さん、行きますかね。日本人はキリスト教徒が少ないですから、教会に行くような人がいないし、お寺に行って仏教の雑誌なんていうのは想像もつかない。多分生活様式が違うと思います。そういう雑誌に賀川さんは1920年ごろからもう載っているんですね。これがまたすごい。
 日本にたくさん来ていた宣教師たちが、賀川に感動して、その記事を書く。そういう雑誌には、例えばガンジーの話が出たり、ロマン・ロランの話が出たり、シュバイツアーの話が出たりしているわけです。ガンジーもそれを読んでいる。「掲載しました」と送っている。それからシュバイツアーもアフリカで読んでいる。だからアフリカにいたシュバイツアーも賀川のことをよく知っていました。インドにいるガンジー1920年のころには賀川を知っていました。1920年というのは、賀川を有名にした「死線を越えて」が出たころです。いかにキリスト教ネットワークの影響力が大きいかということでもあります。
 そういう媒体を通じて、世界を動かすような思想家であるとか、活動家、運動家が互いにその存在を知る。「おお、なるほど、すごいな。こんなやつが日本にいるのか。できたら一度会ってみたいな」。そういう話が例えばシュバイツアーと日本人との文通のやりとりの中に出てくる。「賀川というのはどういうやつなんだ」と。
 賀川が1924年アメリカに行った時には、相当知名度が上がっていた。1932年にア−キシリングが「Kagawa」という伝記を書いた時より10年も前から、実は賀川というのは不思議なことに世界で知られていたということなんですね。これは驚きですよね。
 賀川は1924年から5年にかけてアメリカとヨーロッパに行きますが、賀川がアメリカに到着したのが24年2月でした。アメリカで排日移民法というのが7月に成立しました。これ以上、日本人を増やしてはいけないと、日本人に対する風圧が高まってきた時期に、たまたま行った。つまり世界的な伝道師、社会活動家としての賀川という側面と、日本人という側面と、二つ持って彼は上陸したんだと思います。ですから、歓迎は受ける一方で、新聞記事だとか、日々の生活がすべておもしろい、楽しい旅ではなかったと思います。
 その証拠に、彼がアメリカでの旅を終えてニューヨークからロンドンに向かう時に、こういうことを書いているんです。
「船はニューヨーク港を出た。港の入り口に立つ自由の神様は霧のために見えなかった。それは私は意味あることにとった。米国は、今、霧の中にある。自由の神像は米国には今、見えないでいる」。
これは暗に排日移民法を批判した文章だと思っています。
 こうも言ったんです。「米国国民は国民的年齢において満12歳である」。笑っちゃうのはマッカーサーが日本の精神年齢について12歳と言ったのは20年後なんですけれども、賀川さんはマッカーサーが言う20年前に、アメリカ人は12歳であるなんて、結構生意気なことを言っている。けれども、おもしろいと思いませんか。
 その時ヨーロッパへ行って、ジュネーブ新渡戸稲造さんと会う。新渡戸稲造第一次大戦後にできた国際連盟の事務局次長を8年間やった方で、先ほども言いましたように、日本の心を世界に伝えた方でもあります。台湾の総督府で働いたこともあるし、日本の良心と言われたような方です。その後、組合立の中野総合病院をつくる契機になったのは、そこで新渡戸と出会ったことだと思います。初めて出会ったはずです。
 次にアメリカに行った時は1935年から6年、オーストラリアに行った直後に、またアメリカに行っているんですね。この時はもっとすごいことになっていました。1929年のニューヨーク株式市場の大暴落を引き金とした大恐慌が吹き荒れて、まだ収拾していない時期に、やはり世界的にロシア革命が1917年に起きて、資本主義の対抗軸として社会主義が登場してきた。
 「それ見ろ、資本主義はこういうことになるんだ」というようなことが言われていた時代です。スターリンの大虐殺があったとか言われながらも、ソ連の計画経済はそれなりに成功していました。そんな中で株の暴落を引き金に資本主義社会が貧しくなっていく。日本はそのまま戦争への道を走り出すという表現が使われますけれども、まさしく経済的苦境から逃れられない。
 その時に、日本だけじゃなくて、賀川だけじゃなくて、世界中の人たちが協同組合的経営というものに着目していました。フレッチャー・ジョーンズのところで触れましたが、すでに賀川は資本主義でもない、社会主義でもない経営の試みを始めていました。協同組合の先生として、ぜひアメリカに来てほしいと言われたんですね。
 その時のエピソードとして、もちろんその時は貧民窟にはもういなかったんですけれども、貧民窟にいた時からトラホームを患っていて、シアトルの港に着いた時に、検疫官が上陸をさせなかった。ところが賀川の上陸を待つように、スケジュールはどんどん入っていた。結局どういうことになったかというと、大統領みずからが上陸許可を出した。握手をするなとか、看護婦をつけろとか、いくつかの難しい条件をつけられましたが、大統領の命令で上陸できるようになった。
 6カ月にわたり、全米48州、 148都市を巡りました。講演回数は500回以上。日に平均3回、多い日は11回やりました。朝食会から始まり、どんどん賀川に来てほしいという要請が入るものですから、ちょっとでも時間があると、彼は「OK、やる」ということで、そういうことになったそうですが、確か70万人の人が、賀川の声を聞いたということになっています。そうすると、 180日ですから、日に 3,000人に講演している。そのような人気だったんです。
 ある日本の牧師さんが、アメリカのまちに留学していたときのエピソードなんですが、「賀川来る」というようなニュースが小さなまちに来た時に、「おまえ日本人やろ。賀川の話を聞きたいから何とかせえよ」と。何とかせえよと言っても、どこどこの教会でやるらしい。行ってみたら大渋滞である。ようやく場所についたら、もう教会には入れないので、第2会場が設けられ、さらに第3会場まで設けられていた。
 賀川がようやく来た。第2会場、第3会場はマイクを通じて彼の話を聞くことになっていたんだけれども、さすがに賀川も申しわけないというので、第3会場に行った。そうしたら、聖歌隊の下のところにもぐって聞いていたその牧師さんをらみつけて、「何々さん、お元気ですか」と握手してくれた。終わった後、彼は友達に「賀川の話はどうだった」と、「いや、すばらしかった」。「どこがすばらしかった」「いやよく聞こえなかった」。こういう話がある。
 「おまえ、握手しただろ。おれにその手を触らせろ」、こういうようなことが、多分いろんなところであったんだと思います。とりたてて賀川を神格化するつもりはないんですが、さっきのグラスゴーの看護婦さんの話もそうですし、賀川って、そういう人だっただろうと思います。それぐらい4回目の1936年からの賀川人気はすごかった。
 一方で、その時も順風ばかりだったわけではなくて、「賀川は社会主義者だ、アカだ」。賀川のいく先々に反対キャンペーン隊を送り込んでいた人もいました。それをまた新聞がかきたてる。許せない、賀川みたいなやつが。賀川信奉者はいたっていいわけです。すごいですよ。「信奉者、皆集まれ」。ところが、反賀川キャンペーンも生半可なものじゃないです。というぐらい、賀川が逆に有名だった。「このまちに、あいつが来てもらっちゃ困るんだ、来させるな」というキャンペーンをやった。ここら辺の話は賀川の2冊の本を書いてあります。「雲水遍歴」は1920年代の旅の毎日です。1930年代の旅は「世界を旅している」という本に書いていくんです。
 もう一つ、忘れてはならないのは、協同組合の先生としてアメリカに行って、ニューヨークで重要な講演をしています。これが「Brotherhood  Economics 」という講演で、日本語で「友愛経済」と訳すんだろうと思いますけれども、経済学かもしれませんが、実は賀川は英語でたくさんの本を出して、日本では翻訳されていないものもたくさんあります。この本はアキシリングの伝記と同じように、それこそ10何カ国語に翻訳されて、中国語にも翻訳されています。唯一翻訳されていないのは日本語だけです。今、松沢資料館の加山館長が翻訳作業中で、献身100年にあわせて、何とか間に合わせて出版したいということになっています。この本は1936年にニューヨークでの講演後、数カ月後には本屋に並んでいたそうです。
 その後ヨーロッパへ行きまして、同じ話をジュネーブでやっています。その時は英語でやったんですけれども、これが直ちにモブスというフランス人の牧師さんがフランス語に通訳をした。それがたちどころにフランス語版の本になった。どうもそのフランス語版が、さらに各国語に訳されたんではないか。そこらへんの真相はよくわからないんですが、それぐらい世界的に影響を与えた。
 本当かどうか知りませんが、1970年代に、今のEUがまだECと言っていた時代に、ECの議長で、コロンボというイタリアの元外務大臣が日本に来た時に、「ECの理念は賀川豊彦さんからいただいた」というようなことを言っていた。
ルール地方は鉄鋼や石炭がよくとれるところで、フランスとドイツが 100年来とりあっている。数十年ごとに国境が変わっている。「最後のフランス語の授業」なんていう有名な小説もありますが、実はその数十年前には「ドイツ語の最後の授業」もやっていたので、どっちが正しいかわかりません。
 これがある限りは、戦争がヨーロッパでは尽きないんだということで、戦後そこを国際的に管理しようことになった。フランスでもドイツでもない、ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体をつくって、各国で共同管理しようというのです。EUというのはそこから始まる。その概念は、まさに賀川の「Brotherhood  Economics 」の中で書かれたことが実践されたんではないかということのようです。僕も詳しくは調べたことがないんですが、そういう記録が残っています。
 ヨーロッパにとってみると、「Brotherhood  Economics 」というのは、かなり重要な文献で、日本人はまだ日本語で読むことができない。多分読んでも意味がわからなかったのかもしれません。1930年代にそんな本が出た。その中には、今はWTO世界貿易機関と言ってますが、以前はGATT、そのGATTの発想が入っている、APECの発想が入っている。地域経済会議をつくれと。「なるほど、なるほど」と思うようなことが「Brotherhood  Economics 」の中に書いてある。これはすごいことだ。1930年代ですよ。国連やアメリカ中心に戦後やった国際機関の発想が盛り込まれている。
 もちろん、その当時、賀川だけの発想でなかったかもしれない。いろんな人が言ってたのかもしれませんが、賀川もまたそれを言ってたということだけは確かだろうと思います。冒頭言いましたように賀川は日本のことだけを考えて発信したんじゃない。世界のこと、宇宙のことまで考えて発信したのが賀川だと思います。そこら辺の研究が実は非常に足りないんじゃないかと思います。
 残念でならないことは、「貧民心理の研究」という1冊の本によって、戦後賀川批判が高まります。同和問題に対して賀川は理解がなかったんじゃないかと批判が高まって、本屋さんから賀川の本が消えていくという時代がありました。
だけれども、賀川はたくさんのことをやっています。もちろん、そういう人たちに言いたいんですが、「おまえ、貧民窟に入ってみろ。10日でもいて、南京虫と暮らすだけでも悲鳴をあげるぞ。そこのにおいをかくだけでも悲鳴をあげるぞ」というような状況だと思うんですけれども、その1冊の本だけで、彼は差別主義者だとレッテルをはられた。
 一方で、ヨーロッパではEUの理念の一部をつくってくれた人だという評価もあるということなんですね。もうちょっと幅広く賀川という人物を、研究してもらいたいと思っています。
日本は1937年、中国との戦争が始まり、賀川に対して「余計なことをしゃべるな」と軍部からの圧力も加わって、彼自身も発言を控えていくという状態があると思います。それだけの人物だったにもかかわらず、日本国というものが国際的に賀川の知名度と言いますか、利用すらできない状況にあったんだろうと思います。
 賀川の本は日本語では古本屋でしかないんですが、アマゾン・ドット・コムで賀川で検索してみたら、あるわあるわ、そこへ並べておいたんですけれども、とんでもない数の賀川の本があって、途中でやめてしまいました。古い本が去年、今年、また再版になっていたりする。
おもしろいと思うのは、ヨーロッパでは本屋にずいぶんと古い本が並んでいるのです。6カ月したら本屋の書架どころか、切り刻まれて廃棄されてしまうのが日本の出版状況なんですけれども、ドイツあたりだと、本屋さんは買い取りなものですから、売るまで書架にあるらしい。だから40年前の本が堂々と書架に並んでいる。だから賀川の本はアマゾンでは堂々とたくさん売られているという状況なんですね。それがまた再版されていることだと思います。
 賀川再評価の動きが欧米にあるという話は一切聞いたことはないんですが、そこそこの読者さんがあるんだろうと思います。アキシリングの「Kagawa」という本は、数百万部売れたんじゃないですか。10何カ国ですからね。それを心ある世界の人たちが読んで、読み継がれている。日本には読み継がれるような賀川伝があまりないというのが非常に残念でならない。あるのは彼の身辺につかえた人たちが、師匠としての賀川伝をたくさん出してます。
 その他にもいくつか賀川伝があるんですが、万人が読むような賀川伝はまだ目にしたことはないと思います。ぜひ、これから皆様の中からそういう賀川伝が生まれることを、期待しています。
ひょっとしたら来年の賀川献身 100年で、賀川ブーム、再評価が起きたりしたらどうしようかと、実は真剣に悩んでいる。賀川のことを知りたい人たちが、探しても賀川の本はどこにもない。その本がなきゃどうするんですか。もし再評価に火がつくということは、少なくとも数10万部売れるということですね。数種類の本が並ぶということは全部で 100万部売れる。準備しとかないといけないんじゃないかと、本当に最近真剣に思っているんです。
 漫談のような話を1時間続けてきたんですけれども、決論的に言いたいことがあります。先ほど言いました「Brotherhood Economics 」、この画期的な本を、今、翻訳中である。これに非常に期待をかけている理由が一つあります。皆さん、日ごろ感じておられるんじゃないかと思うんですけれども、すごい原油の高騰ってありますでしょう。何かおかしいと思いませんか。なんで小麦はこんなに高くなる。何でこんなにトウモロコシが高いの。原油は昨日あたりで 147ドル。僕が会社に入ったころ、30年前は3ドルですからね。
 オイルショックで騒いだ。トイレットペーパーがない。あの時ですら39ドル。日本が一番高い原油を買ったって批判されたんですね。その時の値段が1バーレル39ドルで、いまそれの3倍近くですね。やはりおかしいんじゃないですか。お金がお金を生むような構造を資本主義は走っている。僕は社会主義者でもなんでもないんですけれども、やはりソ連が1992年に社会主義を捨てた大きな影響がここへ来て出ている。まかりなりにも、もう一つの道が、社会主義というのはあったものですから、資本主義も今は遠慮しいしいやる。いろいろことが、いろいろな側面であったと思います。
 例えば途上国支援に対しても、資本主義が西側と東側が競争するような状況が「東側のほうがいいじゃないか、親切じゃないか」と思った国、指導者もたくさんいたと思います。ところがそれがなくなった。そうすると資本主義しかない。非常に危ないという意味においては、1929年の大恐慌以降の世界経済に若干似てきているんじゃないか。寡占化が進んでいく。そうすると、やはりオルターナティブな経済が必要だと、どこかから言い出すに違いないと思います。多分その答えが「Brotherhood  Economics 」の中にあるんじゃないかと私は思って、来年の賀川献身 100年は、そういう視点から見れば、非常に意義のあることではないかと思っています。
 東京ではまだ遅れているんですが、神戸プロジェクトは活発に進み始めていますので、神戸以外の方もいらっしゃるかもしれませんから、ぜひ神戸から日本を動かすようなことを発信したら楽しくありませんか。おもしろいじゃないですか。賀川は神戸の人なんだ、徳島が本来はもっとがんばらなきゃいけない。一番最初に活動の拠点にした神戸の地から、再び賀川を評価する運動が出たら、僕はうれしくてしょうがないだろうと思います。我々も東京でがんばりますが、皆さんもぜひよろしくお願いします。
 私の話はこれで終わります。
                 (拍 手)
 司会 伴さん、どうもありがとうございました。
 せっかくですので、もしご質問があればお聞きしますけれども。
 オリタ  一番最初に言われたことなんですが、日本で賀川さんが有名にならずに、諸外国であれだけ有名になった理由というのはどういうことでしょう。
 伴 実は、それが僕のテーマなんですが、答えがまだ出てないんですけれども、キリスト教に反応する思想とか、心の中に、キリスト教という土壌にリトマス試験紙があるとします。賀川はピッと赤く反応するんだと思うんです。賀川が持っているいろいろな発想がリトマス試験紙のように反応する。
 日本では、反応しない。これはなぜなんだろう。キリスト教がないからというのが一つあると思います。
 こういう話を聞いたことがあります。ある日本人、アメリカの東部州の南の方のカロライナという町にいた技術者です。近くで高校の卒業式を見に行ったそうです。卒業証書が授与されたあと、奨学金の授与式が始まります。そうすると、そこのピザ屋が、「この子に奨学金をあげる。4 年間分私が学費を見ます」。そのもらった人も拍手を受けるし、ピザ屋も拍手を受ける。
 あるお父さんは、「自分の息子は皆さんのおかげで、ほとんど無料で大学に行きました。ついては私が息子のために使うはずだったお金をためてありますので、これをB君にあげたいと思います」。また、偉いお父ちゃんやということになるわけです。
アメリカの税金制度では寄付は所得から控除されるんですね。例えば、ピザ屋に1,000万円の収入があって、400万円を寄付した。そうすると400万円控除されて課税は600万円になる。税金は大幅に減るので実際払ったのは例えば200万ということになる。そんな話を聞いたことがありますね。
 寄付する心とかもそうなんですが、人種差別の国で住んでいた経験でいうと、生活のどこかに救いがあるんですね。人種差別が日々あっても、何々先生だけは優しくしてくれる。友達の何々君と何々君だけは、ものすごくよくしてくれるんです。かわいそうと思って。
日本の小学校とかはあまり聞かないですね。皆で一緒にいじめるパターンはよくあるんですけれども。何かそういうものは、戦後日本が失ったのかもしれませんけれども、厳しい人種差別の中でも個々人の中に人間を思いやる心がありました。
 宣教師は西洋列強の世界侵略の先兵となったという話もあるし、実際そういう神父や牧師もいたでしょう。だけど一方ですごいクリスチャンがいるわけですね。賀川を育てた先生方もそういう人だった。最近の日本ではあまり聞かないですよね。そこら辺は、答えになってないんですけれども、アメリカの資本主義が来た。そうじゃなくて、アメリカのいいところは学ぶ。すべてを否定するんじゃなくて、表現は難しいんだけれども、ここを僕もこれから学んでいきたいと思います。
 −− 賀川さんが国際平和教会を熱心にされたということなんですけれども、いまこの中でもお話された世界連邦運動というものとのタイアップとか、それが現在にどういうふうになっているのかというところを、できる範囲で教えてほしいんですけれども。
 伴 これも不勉強で発展途上なんですけれども、多分半分正しいと自分でも思っています。やはり原爆というのはすごかった、世界に与えた衝撃というのは。やっぱり戦争をなくすためにどうしたらいいかと。このまま第三次世界大戦が起きたら世界が破滅する。その時に国家があるからあかんのだということで、もちろん国際連盟というのはつくられたんですけれども、国家には法律というものがあって、いい、悪いは別として強制力を持っている。強制しているのは警察であったり、司法制度である。
 ところが、国連には強制力がない。例えば、ジンバブエで1カ月位前に大統領選があった時に、野党の候補は不正があったとして再投票を求めた。しかし、野党候補に圧力がかかって結局は出馬をとりやめるわけです。サミットでも取り上げられて、ムガベ大統領に対して批判が高まりましたが、ジンバブエに再選挙を求める強制力がないんです、国連には。だから、強制力のある世界政府ををつくっていかなきゃいけない。世界警察をつくれば、皆で軍備は廃絶できるんじゃないか。そういうことを考えた人たちが1940年代、50年代の前半ぐらいまではたくさんいた。
 当時、アメリカの上下院議員に世界連邦を支持するか、しないかアンケートをとったら、半分近くが支持するとか、そういう報道もあります。それからフランスやイタリアは憲法を改正して、世界連邦ができた場合に、主権を移譲するというような項目を入れています。日本国憲法にはないですけれども、日本国憲法は「軍事力を放棄する」ということしか書いてありませんがフランスとイタリアはそういうことまでやっている。本当の話です。
 ところが、50年代に入ってソ連アメリカが、ベルリン封鎖と朝鮮動乱を契機に真っ二つに割れていく。アメリカの世論は世界政府なんて言ってられない。ヨーロッパではソ連に対峙していかなきゃきけない。力で封じ込めていかなきゃいけないんじゃないかというような世論が高まって、例えば数年たって、アメリカの上下院議員にアンケートとると、全然違う結果がでたりするというぐらい変わっていった。
 1940年代、つまり朝鮮動乱の50年まではかなりあっただろうと思っています。世界連邦をつくっていこうという動きはそれ以降、ずっと鎮静化しているというのが現状だと思います。
 −− 今現在、世界連邦運動協会とかあるじゃないですか。そことの関係とかは。
 伴 実は1カ月ほど前に、この国際平和協会に僕が入ったのは7年前ですけれども、そのころはほとんど活動が停止していて、決算もわからなくて収入0というような状況で、ようやく今に至ってるんですけれども、世界連邦のほうはずっとやっていて、そこそこ国会議員とのパイプも続いているんです。我がほうはほとんど切れちゃっているのが現状です。
 司会 ありがとうございます。
 それでは、伴さん、東京からお越しいただきましてありがとうございました。
                 (拍  手)
 −− どうもありがとうございます。賀川豊彦と出会うということで、いろいろ海外の情報を交えましてお話いただきました。ただ、有名だということではなしに、これからそれを受けて私たちはどう考えていくかというところまでの問題提起をいただきました。
 お話の中で、しきりとご宣伝いただきました神戸プロジェクトのリーフレットを今配っておりますけれども、申し訳ないのは、これは募金リーフレットでございますので、心のある方はご賛同いただければと思います。
 開きますと、上のほうに何をするかということで、いくつかあげております。賀川さんゆかりの団体を中心に来年いろいろなことを行いますが、例えば漫画をつくったり、先ほど出ておりました本の出版でありますとか、バングラデシュノーベル平和賞を受賞されたグラミン銀行、ユヌスさんが来年3月くるというふうなこと。12月には日野原先生が基調講演で記念式典のお話をいただくというようなことで、とにかく賀川さんに出会っていただくということをいっぱい考えております。
 日程が新聞紙上に出てまいります。ホームページなんかにも上がってまいりますので、ぜひともご参加いただきたいなと。
 私たちは、今、伴さんがお話いただきましたように、2009年で終わらず、賀川さんの心、行いというものを私たち自身はどうとらえていくのかということで、2010年からも、そのことを考えながら歩みたいと思います。
 この建物、お入りいただきまして、エレベーターもなく、非常に古い建物でございますが、来年建て替えた新館で、いろいろな企画、イベント活動を引き続き行っていきたいと思います。またその時には「伴さんリターンズ」ということで、ぜひともお話いただきたいなと思います。
 今日は本当にどうもありがとうございます。もう一度、盛大な拍手をお願いします。
                 (拍  手)