色あせぬ友愛・互助・平和 山折哲雄 【朝日新聞】

 敗戦直後のころ、賀川豊彦の『死線を越えて』を読んで夢中になったことが忘れられない。スラムにのりこんだ主人公が、悪戦苦闘のすえ庶民の心にとけこみ、しだいに社会運動めざめていく健気な生き方が、賀川自身の体験にもとづいて生き生きと描かれていた。
 神戸に生まれた賀川は16歳のときキリスト教の洗礼をうけ、神戸神学校時代に路傍伝道をはじめている。しかし結核に冒され苦悩の日々がつづく。そんな逆境のなかで明治42(1909)年、神戸新川のスラムに身を投じ、本格的な伝道生活をはじめた。結婚をし、単身でアメリカ留学をはたすが、大正6(1917)年に帰国してからは、のちに日本労働総同盟となる友愛会に参加し、その評議員、中央委員となって活躍した。その間の体験が『死線を越えて』の下地となっているのである。
 この小説は大正9(1920)年に改造社から出版され、総発行部数が400万部という空前のベストセラーとなった。かれがスラムに入ったころは、日本資本主義の勃興期にあたっていた。第一次大戦で戦時景気が訪れ、戦時バブルの成り金が続出した。それにたいして労働者は劣悪な状況におかれ、社会保障もいきわたってはいなかった。貧富の差ははなはだしく、貧民層の不満が世の中のなかに充満していた。そのような時代に、スラムにおける愛と献身の物語があらわれ、キリスト教ヒューマニズムが多くの人々をひきつけたのだった。
 蟹工船』の9年前
 その当時の社会状況が、今日の日本の姿の重なって映る。アメリカにはじまる世界的な同時不況がわが国をも直撃し、昨年は、格差社会のひずみが随所に噴きだして小林多喜二の小説『蟹工船』がブームとなった。そしてその『蟹工船』が発表される9年前に、賀川の『死線を越えて』がすでに世に出ていたのである。
 しかし戦後になって、かれへの社会的評価はしだいに下降線をたどりはじめる。なぜなら戦後の思想界やキリスト教界に登壇するビッグネームは内村鑑三や植村正久であり、それらにつらなる学者やキリスト者たちだったからだ。それにくらべれば賀川に言及する試みは芳しいものではなかったのである。もっともかれは昭和22(1947)年には全国農民組合長になったり、同年、翌年とノーベル文学賞の候補に、また昭和29(1945)年から3年続けてノーベル平和賞の候補として推薦をうけ、日本社会党の統一大会で社会党の顧問に選任されたりもしている。しかしその名声はいつのまにかかげりをみせ、われわれの記憶から消されていった。こうして昭和35(1960)年、かつて掌中にした栄光と名声のかげに隠れるようにして、孤独のうちに世を去る。ときに72歳だった。
 戦後における賀川豊彦の不運にはいろいろな原因が考えられるであろう。だが、そのなかでもっとも重要な問題が神にたいするかれの信仰にあったのではないか、なぜなら賀川のいう「神」は超越の高みに輝く存在であると同時に、かれ自信のからだのなかにかぎりなく降下してくる親しい存在でもあったからである。その信仰体験をかれは「私の心が神に溶ける」といい、「私は神様のお客様だ、神様の花嫁だ」とまでいっているのである。神と同一化する神秘体験を臆することなく言葉にしたのだった。これが正統派と目されるプロテスタントたちの逆鱗にふれ、異端の信仰と批判されたのである。
 民衆の心にしみる
 しかし、このような「神に溶ける」という体験は、キリスト教の信仰が日本の風土に土着していく過程では避けることのできない道であったと私は思う。戦後になって、カトリック作家の遠藤周作が『沈黙』や『深い河』などの作品で追求した問題も、こうしたキリスト教の土着化ということだった。そしてまさにそのようなかれらの生き方や仕事を通じて、キリスト教の信仰が民衆の心にしみとおっていったのではないだろうか。
 賀川豊彦の多面的な社会活動も、もちろんその軌道をはずれるものではなかった。つねに社会的弱者の側に立ち、「友愛。互助、平和」を説きつづけたものそのためだったとのだと思う。(宗教学者 山折哲雄=2009年9月17日付朝日新聞夕刊から転載)