歳月人を待たず 評論家石垣綾子さん追想

 歳月人を待たず 評論家石垣綾子さん追想 松沢資料館研究員 米沢和一郎
 資料館ニュース1997年3月1日号から転載

 賀川豊彦を知る生き証人を尋ねて、思いで話を聞いている筆者は、数年前石垣綾子さんと会った。
 欧米で、スラム救済の聖者賀川を書いたルポルタージュは沢山ある。しかし日本人による記録は、徳冨猪一郎の当時としては珍しい写真入りのものがあるくらいで、多くない。かつてスラムで生活する賀川を、多くの人々が色々な思いを抱いて訪れた筈である。そうした一人として、賀川と共に働く希望を持ちながら、逃げ帰った体験を持つ石垣さんの回想は、数少ない記録の中でも極めて特異なものといえる。
 賀川の『死線を越えて』を読み、その働きに憧れた彼女が、柳宗悦夫人富本一枝の紹介状を持ってスラムを訪れたのは1922年19歳の時らしい。その時の事を石垣さんはこう回想している。
「トラコーマに侵された片目には、黒い眼帯をかけている。眼帯をしていない方の目も真赤にただれ、その赤い目をじっと私に据えた賀川に」彼女は「ここに飛び込んできた心情と覚悟」を話したという。その時、賀川は「あなたがここで働きたいなら、まず貧民窟を見なくてはいけませんね」といって、近くにあるイエス団友愛救済所を案内したらしい。そこで「先生」と慕われる賀川の後に立つ彼女への、よそ者への視線を感じながら「見物しにきたのではない。ここの一員になるために来たのだ」と心にいい聞かせながら後について歩いたという。
 やがて一日が終わり、「あなたが本当にここで生活する気なら、今夜お風呂に入っていらっしゃい。できますか」といわれ、「夕食後賀川夫人に銭湯へ連れていかれた」。そして「浴槽の中に片足を入れると、底に溜まったどろどろの垢が足の裏にどろりと触った。私の身体は一瞬動かなくなった」「これができなくては、先に進めないと私は自分を鞭打った。一旦たじたじとなった私の心は、どのように無理強いをしても、沈み込むばかりだった」。「その夜、固いせんべい布団にくるまった私は、どうしても眠れなかった。四方から貧困の臭いが発散してくる。身体にまとわりつく汚濁のぬめりが私を突きのめした」。
 これが所詮「お嬢様の生活の苦労も知らないセンチメンタリズムだとは考えもせず、向こう見ずの真剣さで」賀川を訪ねた彼女、一夜にして夢破れ逃げ出した事の顚末であった。だがこの敗れし者の記録『我が愛 流れと足跡』(昭和57年、新潮社)は、赤裸々な描写によるスラム内部の極貧の実態と、それに向きあった「新川の先生」の非凡さ、とすごさを、あらためて我々に教えてくれる。石垣さん79歳の自伝回想である。