賀川豊彦の名を世界的にしたタッピング一家 女優長岡輝子

 賀川豊彦の名を世界的にしたタッピング一家 長岡輝子
 資料館ニュース1997年12月1日

 明治の終わりから大正、昭和にかけて大人になった日本人で、賀川豊彦の名前を知らない人はいないでしょう。それに反して、その背後で彼を支え続けたアメリカ人宣教師タッピング一家を知る人は、ごく一部の人になってしまいました。
 今、私の手もとにある「日本英学史学会」発行小林功芳氏の「タッピング家の人々」によると、「その先祖はイギリスの貴族で、当時禁止されていた新教(プロテスタント)の信仰を守ったために、領地は取り上げられ首に懸賞までつけられました。更に、信仰の自由を求めてアメリカに亡命したのが、1960年との事でした」とあります。こうした家系を持つタッピング一族は、その後ウイスコンシン州に最初のバプテスト教会を建てたり、その孫は黒人解放、禁酒運動、農場経営や穀物取引のかたわら、手広く商売もされていました。
 私が盛岡で幼稚園児だったころ盛岡に来られたミスター・ヘンリー・タッピング先生も、お若い時に不動産に手を出して騙され、大きな借財を抱えました。それを自力で全部返された後、自分の使命は聖職であると痛感し、シカゴ大学を出て、ニューヨークの神学校に新婚の夫人と共に学び、更に別な神学校在学中に娘ヘレンが誕生したのです。
 タッピング夫人は、夫と同じウイスコンシン州生まれで、大学卒業後シカゴで保母資格を取得され、その後ドイツのライプツィヒで音楽を学びました。結婚した二人は、コロンビアのベネディクト大学に呼ばれて、聖書と音楽の教師となったのです。
 こうして何年か経ち、明治28年タッピング夫妻は来日して、夫は東京中学院で宣教師として生徒の信望も厚く、夫人は築地の居留地と、四谷に幼稚園を開き、また保母養成所も発足させました。
 話が変わって、私の母「長岡 栄」は、東京の女学師を出て、盛岡高等女学校に勤務したのが、明治33年でした。その頃、女学師には幼稚園があって、フレーベルの教育法も学んでいましたが、自分の息子がその年齢になっても幼稚園がなかったので、教えていた学校の雨天体操場と、校庭を、保育会として週三日間使っていました。しかし、校長が変わると同時に、そこを立ち退かされる事になってしまい、困り切っていました。そこにタッピング夫妻が盛岡に来られて母の話を聞かれるや、さっそくその保育会を引き受けて自宅を開放し、盛岡幼稚園として発足させる事になりました。これが今日も続いている内丸幼稚園で、明治42年3月に県に正式認可されたのです。タッピング家の二人の子どものヘレンと、ウィラードの教育は、アメリカで受けていたので、ヘレンもウィラードも、休暇には盛岡の家に来ていたようでした。タッピング夫妻は、大正9年に幼稚園を新しい園長に任せ、ご自分達は帰米して5年後に再び来日され、横浜に新しく家を建てられ、関東学院で教師をされたり、A・ライシャワー牧師(ライシャワー元駐日大使の父)の仕事を手伝われたりしていました。そこにあの関東大震災が起こり、家も何もかも消失したのです。その中で被災者たちのために老齢もかえりみず、宣教師の働きをなされたのです。その結果、体をこわされて昭和2年、ミッションを引退されました。
 長女ヘレンは、明治44年コロンビア大学を卒業して宣教師となり、大正10(1921)年頃は、神戸女子青年会(YWCA)の初代総幹事といして活動しているので、その頃活躍していた賀川豊彦の仕事には、多大の共感を持たれたのでしょう。
 へレンがこの4年前にミッションを辞めているのは、ミッションの枠の中にいては思うような仕事が出来ない、と感じられたからではないかしら。賀川豊彦がニューヨークで帰米中のヘレンに会い、彼の仕事に参加を求めると、彼女は両親と三人での参加を申し出ました。この三人の参加は、賀川の仕事を世界的に広めることになりました。
 ヘレンは、先ず、賀川豊彦の海外伝道旅行に同行して秘書の役割を果たしました。老齢の両親は、賀川の伝道文書の翻訳、整理、英文パンフレットを作成して海外に発送する・・・賀川はそういう彼らのことを天使たちと呼びました。又、賀川が組合病院を東京に建てた時も、彼の苦境を知ったタッピング家は、宣教師での僅少な貯金から思い切った寄付をして人々を感動させました。
 昭和14(1939)年から翌年にかけてヘレンは、フィリピンで教育事業をしていました。昭和16年に日本に来ていたヘレンも、日本を去り、軽井沢には両親が残ったものの、8月の暑さの中で、世田谷の自宅に戻ったヘンリー・タッピング氏は、脳卒中で帰国の船に乗る事もならず、息を引きとられました。85歳。昭和17(1942)年の事でした。
 その後、まもなくひっそりと告別式がありましたが、タッピング氏の最後の祈りは、「主よ彼等の罪を許し給え、彼等はそのなすべき事をしらざればなり」であったと、司会の方が話された事だけを私はよく覚えています。
 残されたタッピング夫人は、病気を理由に頑として帰米を拒否し、戦時中の窮乏生活を耐えられました。敗戦後、宮中に招待された夫人は、昭和天皇と、お互いに自分の方が悪かったと、譲り合わなかったのは有名な話です。その後、一時帰米した夫人は、ヘレンと共に来日して上北沢に住まわれましたが、昭和28(1953)年7月18日老衰で世を去られました。91歳でした。
 そして同月25日には、松沢教会でタッピング夫妻合同葬があり、私は盛岡境地縁の卒業生代理で追悼の辞を捧げました。