ジュネーブ講演が火を付けた賀川ブーム

 Think Kagawaの読者は1936年のロチェスター大学で賀川豊彦が行った「Brotherhood Economics」と題した講演が英文で出版され、欧米を中心にセンセーションを巻き起こしたことはご存じのことだと思う。賀川はその後、ヨーロッパに渡り同年8月6日ジュネーブ大学講堂の演壇に立った。米沢和一郎氏が明治学院大学キリスト教研究所から出した『賀川豊彦の海外資料2』からその様子を書き写したい。

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 新渡戸稲造が1926年講演したジュネーブ大学講堂の同じ演壇に、賀川は10年後の1936年8月6日に立った。ジュネーブ市庁の下に広がるバスチヨン公園にあるジュネーブ大学講堂の真正面には、公園をはさんで対極に宗教改革記念碑がある。その(カルバン)宗教改革記念400年祭の記念行事として開催されたジュネーブ大学エキュメニズムセミナー講演のためであった。このエキュメニズムセミナーは、その後欧州のオランダ、イタリア、バチカンローマ法王を元首としていたアンゴラでの出版や、シンポジウムがなされている。そうした派生展開から要請を受け、賀川がToppingを派遣したのは1937年のことである。話を賀川講演に戻すと、のちにWCCのトップとなるオランダ人のヴィッサー・トッフトをはじめとして、回勅で反ナチズムを鮮明にしていたピウス11世が派遣したバチカン使節も聴衆のなかにいた。本題は、エキュメニズムであったが、なぜか、講演冒頭で時局を投影したような話から入ったと記憶していた人がいた。このセミナーで賀川の英語講演をフランス語に通訳していたアーノルド・モップである。主宰者アドルフ・ケラーに促されて演壇に立った賀川は下記の冒頭の言葉を発したという。
 「凡てのものが成長する。都会が成長し、機械が成長し、資本主義が成長する。だが魂と愛だけが成長しなかった。そこに地球の悩みがあるのではないか。宗教的精神が涸れる時、各民族は痛ましくも流血の中に喘ぐ。その実例を最もよく示したのが欧州の歴史である」

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 1936年、すでに戦争の暗雲が立ち込めていた欧州で、賀川は再び「Brotherhood Economics」を説いたのである。戦争を避けるために、共に生きるための協同組合精神を訴えたことが、欧州の人々の心に響き、各国での翻訳出版が相次いだほか、各地でシンポジウムが開催され、賀川の代理としてヘレン・タッピングが派遣されたということである。賀川ブームが欧州を席巻したといえばいいすぎか。(伴武澄)