賀川豊彦ノーベル平和賞候補推進委員会の「会報」第2号
松沢資料館の杉浦秀典氏から「会報 第二号」と題したA4のコピーをもらった。「賀川豊彦ノーベル平和賞候補推進委員会」の会報なのだが、ノーベル財団に対して賀川を平和賞に推挙する運動が国内にもあったことに少々驚いた。日付も主催者も書かれていない一変のコピーをThink Kagawaに掲載しておきたい。
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賀川豊彦逝去
「再起の日近し」と、それをのぞみ、それを祈っておりましたが、ついに4月23日午後9時13分、賀川先生は、万民の救いと世界平和を祈りつつ召天されました。
ノーベル平和賞のキャンペーンに御厚意と御配慮をたまわりました方々にあつくお礼申し上げます。
ノーベル平和賞は生存者に
ノーベル賞は、受賞者が、継続して研究や運動がつづけられるようにというのが、その目的のようであります。それ故、賀川先生の場合は、今後の運動を中止するのが、至当かと思います。
ノルウエーの委員会に問い合わせ中
賀川先生の逝去をすぐにノルウエーのノーベル平和委員会へ通知すると共に、今後、運動をつづけることの可否を問い合わせてありますが、何の返答もありません。或いは、船便で回答があるかも知れません。
推薦運動は一時中止
国内でも、また海外にも推薦運動を展開してきましたが、一応休止したいと思います。書類その他不要のものは、当委員会へお返し下されば幸いと存じます。
エイクリー氏と連絡して
1955年、ノルウエーの国会議員によって賀川先生がノーベル平和賞の候補に推薦されたとき、その事務的の事を担当された、ノルウエーのエイクリー氏とも連絡がとれ、その指示によって、賀川先生の平和運動に対する業績を証明する文献を送り出しておりました。これは大変にうれしいことでした。
フレッチャー女史も一役買ってくれて
「賀川伝」を書いて、シュバイツアー賞をうけた作家フレッチャー女史は、賀川のノーベル平和賞を大変に喜んで、アフリカのシュバイツアー博士に手紙を書いて、推薦方を依頼して下さっていた。
フレッチャー女史は5月下旬にアメリカの郷里の大学から、名誉博士号を贈られることになっている。
タッピング女史の努力
タッピング女史は、毎週金曜日に、その自宅に横山春一を招いて推薦運動を手ぬかりなく展開するために親切な指示を何くれとなく与えてくれた。
賀川先生の逝去を最も悲しんでくれる一人である。
会計のこと一言
大変御配慮を頂いた会計の面も、さほどの心配もなく、結束がつきそうです。
唯今では、まだ少々不足をしておりますが、大阪方面の有志の方々が5万円負担して下さることを約束して下さいましたので、それで大体締切ることが出来ると思います。尚、不足の分は東京側で負担いたします。
「賀川豊彦・人と業績」
推薦運動を活発にするために印刷準備しておりました「賀川豊彦・人と業績」の第4校の校了のとき、賀川先生が逝去されました。
それで、一部を訂正しまして記念に極めて少部数印刷しまして、お送り申しあげました。御覧下さいませ。
「月報」第3号をもう一度」
会計の結末がつきましたらもう一度、月報で御報告申しあげたいと思います。