先人の風景 キリスト教社会運動家(香川県豊島)【山陽新聞】

 瀬戸内海の十字路に位置する香川県土庄町豊島。日本が抜き差しならぬ戦争への道を歩もうとしていた70年前、自由な言論活動を封じられた賀川豊彦は、この島で事実上の軟禁生活を送った。
 起居した館の裏山の灌木(かんぼく)を抜け、稜線(りょうせん)を20分余り登った丘陵地を「ゲッセマネの園」と名付けた。聖書を読み、祈りをささげるのを日課としていたという。
 ふもとの神子ケ浜(みこがはま)の沖をフェリーが進む。賀川が去った後、島に不法投棄された60万?を超える産廃をコンテナに密封し、溶融処理施設のある隣の直島へと運ぶ。
 やぶに包まれたかつての庭園にフェニックスが根付いていた。賀川が復活と再生を祈った島は、試練をくぐり、不死鳥となってよみがえることができるだろうか。
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 跳び回るイナゴたちをかき分けるようにして刈り取り機が進む。瀬戸内海を望む豊島の棚田でハンドルを握るのは、早稲田大大学院助教の切川卓也さん(27)。地元農家と一緒に「早稲田米」を植え付けた約3?の田に収穫の秋が訪れた。紫黒色の古代もち米をはらむ穂はほんのり赤い。
「10月18日の祭りでもちつきしようや。白米と混ぜたらえび茶の早稲田カラーになるで」。廃棄物対策豊島住民会議の先頭に立ち、不法投棄産廃と闘い続けてきた安岐正三さん(58)も作柄に満足そうだ。
 切川さんは豊島事件の公害調停成立に尽力した永田勝也早稲田大教授の研究室に籍を置く。安岐さんたちと産廃撤去後の島の再生を話し合い、たどり着いた一つの実践がこの田んぼ。彼らの姿は年近く前の賀川豊彦と重なり合う。
「豊島に来て『稲こぎ』を毎日手伝って居ります」。1943年11月に投函(とうかん)された賀川のはがきが残っている。職業紹介事業で賀川の右腕になった武内勝(瀬戸内市長船町生まれ、66年没)にあてたものだ。
 知人から結核療養の適地として豊島を紹介された賀川は39年、虻(あぶ)山の近くに「神愛保養農園」を開拓。その後、南部の神子ケ浜に移転し、敬愛する英国人司祭にちなんで「ウェスレー館」と名付けたサナトリウム兼教会で、本土から渡った結核患者とともに療養し、著述にふけった。
20年に出版した自伝的小説「死線を越えて」は400万部に達した大正期最大のベストセラー。講演旅行した米国や欧州で何十万人もの聴衆の心を揺さぶり、ガンジーシュバイツァーと同列の「聖者」とたたえられた人物が瀬戸内の離島にやってきたのである。
 朽ちようとするウェスレー館の隣で、今も稲作に取り組む砂川三男さん(81)は、小学生のころ、賀川にたびたび頭をなでてもらった。地学などの博識に驚かされ、「賀川先生が島に『文化』を持ち込んだことは間違いない」と証言する。
41年12月初旬、賀川は最後の一秒まで日米開戦回避を信じ、両国のキリスト教徒へ徹夜の平和祈とう会を呼びかけた。しかし、同8日に太平洋戦争が勃発(ぼっぱつ)。豊島での「稲こぎ」の日々は、祈りが届かなかった失意のどん底にあったはずだ。
 ところが。「死すら役に立つのだ!」「『死』を代償として支拂は無ければ、復活は無いのだ!」−「豊島にて」と添え書きした42年の著書「復活の福音」の序文はどこまでも力強い。
 「単なる戦争反対論ではない。間違ったという自覚を持ち再出発する。絶望せず、へこたれなかった」。戦後は戦意高揚に協力したと批判にさらされもしたが、武内の遺品から賀川関係の資料を調べている牧師鳥飼慶陽さん(69)は、苛烈(かれつ)な試練に立ち向かう内面の強さを読み取る。
 聖書中の「ゲッセマネの園」はオリーブ山のふもとにあり、イエスと弟子たちが最後の晩餐(ばんさん)の後、祈りをささげた地とされる。ウェスレー館の裏山を聖地になぞらえ、再生と復活への力を得ていたのだろうか。
 豊島を「夢の島」と思い定めたのは賀川一人ではない。農業改革で彼を支えた藤崎盛一も島へ渡り、47年、唐櫃(からと)地区に「豊島農民福音学校」を開校した。各地の指導に行脚しながら83年まで学校を続け、98年、ついに島に骨をうずめた。
 補助金など一切受けない完全な私学。「とにかく頑固一徹で研究一筋だった」。息子の盛清さん(61)が暮らす同校跡地では、賀川と藤崎が追究した「立体農業」に基づき、栽培奨励したペカン(クルミ科)の木が今も実をつける。
 賀川の召天とともに始まった高度成長、大量生産・消費社会は、立体農業を飲み込み、全国最大級の不法投棄産廃というツケを「夢の島」に押しつけた。
 ウェスレー館へ通じるうっそうとしたやぶ道の前に、公害調停合意を記念し、住民会議議長を務めていた砂川さんたちが植えたオリーブが育つ。再び「百年に一度」の経済危機に瀕する現在、世界は賀川が豊島で予言した「復活の日」を待ち望んでいる。
 【福祉の島】賀川が開拓した「神愛保養農園」の跡地には、1947年、彼の勧めを受けた吉村静枝(96年没)が坂出から8人の孤児たちとともに来島し、乳児院「豊島神愛館」を開設した。賀川が創立した社会福祉・学校法人「イエス団」(本部・神戸市)が運営を引き継いでいる。特別養護老人ホーム「豊島ナオミ荘」(ナオミは旧約聖書に登場する女性)、廃園した神愛保育園を転用した知的障害者更生施設「みくに成人寮」も立地し、産廃事件以前、豊島は「福祉の島」と呼ばれていた。賀川の小説「乳と蜜の流るゝ郷(さと)」(今月、家の光協会から復刻出版)は福島県の寒村が舞台だが、協同組合と立体農業の理想にまい進する自身や藤崎盛一の姿を実録的に描き、豊島の実践までの前史をたどることができる。藤崎の著書「農民教育五十年」(76年刊)によると、立体農業は米麦、野菜、果樹栽培、畜産・酪農を組み合わせ、「あらゆる動物、植物を利用し、土地を立体的に機能的に使用する」循環農法だったようだ。(2009年9月21日付山陽新聞、池本正人)