ロッチェスターの戦争 『世界を私の家にして』から

「ロッチェスターの戦争」といふ初号の見出しを、保守派の宗教新聞がつけている位、故ラウゼンブッシュ教授の記念講演は、私が同市に行く前からセンセーションを起こしていた。
 あまり人の批評を気にしない私も、、学校が学校だけに、先方に対して気の毒だと思った。ロッチェスターには全米商工会議所会頭が住んでいるといふ理由もあったが、超綱領派のノリスは、私が8回講演すると聞いて、私を8回攻撃すると新聞に発表した。それより先、市の公会堂を私のためには貸すなと市長に講義した団体があった。それは、市在郷軍人会で、それに愛国的婦人団体も参加していた。愛国団体は私の平和主義が米国の軍備を虚弱ならしめ、私の協同組合主義が、米国を破壊するから不可だと主張した。新聞紙はこれを面白がって書き立てる。ロッチェスター神学校は全責任をもって、私が決して危険人物で無いことを証明しようとしても、保守派の牧師達はきかない。論議につぐ論議毎日新聞紙上にのり、遂に新聞社の社説までが、私の思想傾向を論説に書くやうになり、「自由思想を許して来たロッチェスターはカガワの説を先ず聞き、しかして後に彼に反対すべし」と正論を吐いた。この論説などが利いたと見えて、市は在郷軍人団の要求を退けて、私に公会堂を開放してくれた。
 ところがその夜、私の反対者フランク・ノリス氏は他の大講堂を借りて、「カガワ論」を大いにやったさうである。面白いもので、あまり無茶な攻撃をするので、聴衆が怒り出し、ノリス氏に質問演説を始める人間が現はれ、会場が混乱したので、ノリス氏は巡査を呼んで、質問者を捕縛すると怒号したとのことであった。殊に同市にある独逸神学校の学生及び教授が、ノリス氏の狭量と独断に反対したので、翌日よりは独逸神学校の学生を監視する者をつけたとの事であった。
 私は保守派に対して何等批評を加へず、私の信ずるキリスト教的社会改造論を主張したので、三夜の連続講演を、静粛に大衆がきいてくれたのは嬉しかった。
 かうして三日間の激動の後に、同市の新聞の社説や投書は、ノリス氏を反駁する記事で満たされていた。
 ある投書の如きは「何人がノリス氏に会場を貸したか、市民の公安を害したのは彼であった」と書いていた。で、私の無抵抗主義が或種の効果を納め得たことを私は喜んだ。
 然し納まらないのはノリス氏である。最後の晩に、彼は「カガワを送還するめに、諸君はワシントン政府に電報を打て」と叫び、更に「これより私は、シカゴに行き、カガワ反対の大道団結を作り、彼の仮面を剥いでやる」と断言したさうである。
 実際、その後、私に反対するパンフレット及びリフレットが全国で発行せられ、私も数種土産として日本に持って帰ったが、これだけ反対せられた米国訪問客も少ないであろうと私は思った。
 ところが反対が加はれば加はるほど、米国人は私の演説会に雲集して来た。それで私を慰める人々はこんなことを言うた。「カガワ、米国人は賛成する前に一度、反対してみて、どれ位忍久力があるか試す癖があるから、君、反対せられても悪く思ひ給ふな」と。米国人の心理が何処にあるか、かうなるとよくわかる。