全労済=全国労働者共済生活協同組合連合会
全労済が取り組む労働者共済事業は、1950年前後から、労働組合や生協関係者の間に労働者福祉運動の一つとしての共済事業に関する関心が高まり、1954年12月、大阪の地で始まりました。
翌1955年には新潟で、また1956年には富山、長野、北海道、群馬、福島にも誕生しました。いずれも、発足にあたって、まず火災共済事業を手がけました。特に新潟では、発足のわずか5カ月後に大火災に遭遇しましたが、組合員が総力をあげて取り組んだ結果、掛け金収入を上回る給付金の支払いという困難を乗り越えることができ、共済事業の歴史に残る一歩を標すことになりました。この大火災を契機に、各地で共済事業が始まるとともに、さらなる非常事態や大災害に備えるために、事業の全国組織化が急がれることになりました。
賀川豊彦は、晩年、「保険というものは、その本質上、協同組合化されるべきものだ。歴史的に見ても、保険は友愛的または、社会性を帯びて出発している。それが途中から、その純真な隣人愛的な発生と動機が失われて資本主義化した。
協同組合がもつ道徳的自粛力と、その非搾取的精神と、その共愛互助の機構そのものが、保険の根本精神と一致する。」と述べられています。全国組織化に向けた労働者共済運動の広がりは、まさに賀川豊彦のこうした「保険制度の協同化」へ思いに強く影響を受けたものです。
そして、1957年、それまで事業を開始していた18の都道府県労済は、その中央組織として、「全国労働者共済生活協同組合連合会」(労済連、全労済の前身)を結成しました。この労済連は、その後も労働組合との協力関係を広げながら、労済運動の基礎を固め、その後、1964年の新潟地震など、多くの困難を乗り越え、1976年に全国事業藤堂を実現し、略称を「全労済」に改めました。
賀川豊彦には、労済連が結成された翌年の1958年に労済連の顧問にも就任いただきました。労済連の設立とその草創期における労働者共済運動に対する賀川豊彦の多大なご尽力により、その精神は現在も全労済にも確かに受け継がれています。(「賀川豊彦とともに明日の日本と協同組合を考える」パンフレットから転載)