協同組合の理論と実際(10) 賀川豊彦

 十六、精神運動としての協同組合

 協同組合は、単なる機械的な組織ではなくして精神運動であるといふことをまづ心にとめてゐなくてはならない。
 ある學者が協同組合は「正直の資本化」といつたが、なかなか味のある言葉だと思う。協同組合が精神運動であるから指導者と組合員の美徳が進めば進む程成功する。
 實に協同組合の運用は、運用する者の精神的社會意識の目覚めの程度によつて如何ともなるのである。
 協同組合運動は、どうしても道徳教育が徹底し、意識開發に俟たなげればならない。何故ならば、道徳の進んでいる國程この運動が成功し、然らざる國は失敗してゐることが何より証拠である。
 英國米國・スカンヂナビア諸國・スェーデン・デンマークノルウェー・フヰンランドは成功し、印度・支那では不成功であり、ロシヤも始めはよくなかつたが、普通教育が行き渡り向上するにつれてよくなつて来た。この事をよく心に銘じてかからねばならない。
協同組合運動の經済が、その組合員の意識内容と一致すると私の主張する点がここにあるのである。
 もしその組合員が利己的であれば、利益金は全部彼等自身に返つてゆく。
 組合員に他愛共助の精神が旺であれば、その利益は組合の決議によつて全部社會公共の爲に使用される。
 然し協同組合は、個人主義的に經營される資本主僕と異つて、協同組合そのものが統制經済的に計画をもつてゐるだけ、たとへ組合員が多少利己的になつても、自由競争の無いだけ強味を持つてゐる。
 それ故、善き組合は、利己的な組合員を制圧して實質的に良い方へ向はしめる傾向を探るのである。それで贖罪愛的宗教意識が、それを組織する組合員と、それを指導する組合の理事の間に多くあればある程、その比率に従つて、組合は完全なる社會性を發揮する。そこに精神的兄弟愛意識と新しい協同組合意識が、實に緊密なる関係を持つて居ることがわかる。
 自分の一人の力は弱いかもしれぬが、十人・百人・千人の力を集めてここに一つの新しい強大な力を持たうといふのである。協同組合とはこの協同の團結力である。更に廣く言つて國を救ふために一に協同同組合、二にも協同組合、三にも協同組合といふ信念でゆかねばならない。しかし幾度も繰りかへすやうであるが協同組合は単なる金儲けの團體ではないといふことを銘記しておかねばならない。ただ金儲けのために結ばれたものならば、損をすれば直ちに潰れてしまふ。喜んで人のために損をする覚悟がなければ、自分の村・町・市・土地を守れるものではない。
 喜んで損をするものがある。それが我々の血である。傷があるとそこヘグッと循つて来てくれる。腫物が出来ると血が飛んで来て自分は犠牲になつて死んでくれる。さうした血のやうな役目をしてくれるものがあるから身體は安全に保つてゐられる。協同組合の精神は、その血の精神でゆかなければならない。皆が皆この血になつて自分の土地を救はなけれならない。そして飽くまでも誘惑に勝つて協同組合の金は銀一文も私腹には使はぬといふ崇高な気持をもちつゞけなければならない。私が長い間、且つ終始協同組合は精神運動であると主張しつゞけてゐる所以がここにあるのである。(続)