協同組合の理論と実践(13) 賀川豊彦

 廿一、信用組合

 第三には、信用組合についてである。
 國家の信用といふものは、國家を組織する國民の七つの經済的價値運動の組織化に伏在してゐる。即ち(一)國民の生活力、(二)國民の勞働力、(三)國民の市場確保力、(四)國民勢力の増進力、(五)國民の能率、(六)國家の秩序、(七)國民の文化程度と消費力等の合成された社會勢力そのものが、即ち金融力そのものになるのである。金貨の如きは全くその社會勢力の表象にしか過ぎない。
 信用組合は、この國家の金融信用組織の上に立てられる。
 信用組合の中で、最も理想に近いのは、ドイツにあつたライファイゼン式信用組合であつた。この信用組合は、防貧・救貧の二つを兼ね、資本の集中を防止し、資本の個人的集積を無くする運動としては最もキリスト教的である。
 日本のやうな貧乏な國に於ても、太平洋戦争前、約十八億圓、今日は約五百億の金が信用組合の手に集まつてゐることを考へてみても誠に面白い現象であるといはねばならない。
 信用組合は是非、各種保險組合とよく聯絡をする必要がある。殊に生命保險とは、絶対的の連りを保ち、生命保險による死ぬまでの定期預金を農村及び商工業者の生業資金(特に各種組合事業の資本として)流通せしめる必婆がある。
 今日の金融組織の欠陥は、金融組織を餘りに重視し過ぎる傾向にある。私は金融組織とは要するに社會勢力の流通性に外ならないと考へてゐる。金融制度はそれを表象するものにしかすぎない。かの社會信用制度を唱導したドグラス少佐が、その表象的金融組織を社會勢力以上に過重視して、金融の社會化だけを計れば、無産階級を解放し得ると考へたのは大きな間違ひである。米國のメクレンベルグ氏の如き一萬五千人の失業者を、たつた二百五十萬弗の流通爲替券で、四年間に渉つて支へ得たといふのは、流通爲替(ドグラス氏に言はせば金券)がさうさせたのではなく、ギルド組合組織そのものがさうさせたのである。
 別の言葉でいへば、メクレンベルグ氏は宗教的兄弟愛の意識を實行して、失業者を生産組合と消費組合と販売組合と信用組合に組織立て、その上で金券を發行したから、僅か二百五十萬弗で彼等を救ひ得たのである。
 即ち協同組合組織が先行して、金融組織が後から随いて行つたお蔭である。
 組織のないところには完全なる金融は行はれない。そこには物々交換しか行はれない。金貨や銀貨は、一種の物々交換で、紙幣や爲替の流通する世界は、稍(や)や組織立つた世界である。デンマークのやうに協調組合が國民經済化すれば、紙幣などは要らない。傅票が完全に紙幣の代表をするのである。
 ここまで信用組織が發達した場合、協同組合中央會、國家の保証を得て、ドグラス式金券を發行すれば、殆んど大きい故障は、起らないであらう。
 その場合でもドグラス式金券は、やはり社會的負債として残ることは、責任ある協同組合ならば誰でも理解するであらう。
 社會的負債を恐れる者は、公債の發行を恐れると同様に、ドグラス式金券を恐れるであろう。中央政府の紙幣でも限度を超えて多く發行すれば、物價に一大変動を起すことは誰でも知るところである。
 この変動を救ふものは結局、協同組合である。故に廻り廻つて考へても、協同組合的な信用制度の外、眞に理想的な金融制度を確立することは出来ない。
 共産主義者は、資本主義を破産する一手段として、貨幣の破壊を希望してゐるが、貨幣の破壊は、信用組合制度を中心として各種協同組合を完成する外方法はない。
 デンマークは、傅票を以て小切手に代へ、その小切手が協同組合中央金庫に廻つて行き、そこに於て、組合員の生産した金額が預金として中央金庫に記載されてゐる數字の中から、その傅票の金額だけ除去し、その残りを帳簿に記入して、數ケ月目に一回づつその組合員に通知する仕組で完全な金融の組織が行はれてゐる。かうなれば、銀行爲替の組織も要らず、郵便小爲替の制度も全く不必要である。
 しかし、かうした完全な傅票式金融制度は、協同組合を離れては、絶對に確立しない。そして協同組合が完全なる統制經済と絶對的非搾取制度の上に基礎づけられて居ればこそ、運用が圓滑に行くのである。
 その上に、この非搾取制度と統制經済組織が。デンマークのルーテル教會の信仰の上に乗つかつてをればこそ、よく實施されてゐるのであると私は見てゐる。若し仮に、一組合員が共同の幸福を裏切つて傅票に他人の名を署名するとか、金額を一寸胡麻化すとかすれば、この伝票金融は忽ち破壊され、混沌たる状態を呈して再び銀行手形に逆戻りをしてしまふであらう。これを考へると、貨幣の破壊は、宗教的信念を基礎とする協同組合の確立によつて始めて可能になるのである。(続)