協同組合の理論と実際(14) 賀川豊彦

 廿二、販売組合

 生産組合が。消費組合と直接に聯絡することが出来るならば、販売組合を作る必要はない。然し、消費系統が明瞭でない場合は、どうしても販売組合を作つて大都市の消費階級と関係を結ばねばならない。これは米國に於ても、第一次世界大戦前から發達したものである。
 小麦・青物・牛乳等に於ては欧米諸國の農民間にこの組織はよく普及されてゐる。
  それで私は詳しくこの事に就いては述べない。販売組合を作つてゐる農民の一方が、作つてゐない農民より、景気のよい時には収入が多く、不景気の時の損害をも免かれるので、結局、販売組合を作つた方が全體から見れば大きな利益である。農業會は戦争中この使命を果した。
 このことは、一九三五年頃の組合のない濠洲の農民と、組合を持つてゐたニウジランドの農民を比較すればよく判る。
 然し、販売組合を組織する農民が、唯營利を中心として社會改造の大理想といふことを考へず、一歩進んで信用組合・社會保險組合・消費組合・共済組合等まで手を伸ばさうとする勇気を欠いてゐるために、今日まで世間からよく思はれてゐないことは、誠に残念至極であると思ふ。
 そこで、販売組合は、単獨組合としないで、七種組合の一つとして組織すべきであると思ふ。
 販売組合が發達してくると当然、小売商店が没落する。そこで小売業者を商業組合にまとめて、販売組合化する用意が必要である。
 この事は、少し技巧を用ひさへすれば容易に爲し得る事だと私は思つてゐる。デンマークでは、二十二萬戸の農民が、第二次世界戦争前、八億三千萬圓の貿易を自分でやつてゐた。それでなければ利益は農村へかへつて来ない。
 農村に、生産・信用・利用・販売・共済の五組合が、がつちり組織されてをれば、他の勢力の入る餘地がない。

 廿三、共済組合

 共済組合とも称すべき互助制度は、最も古くから野蛮人の間にすら發達したものである。
 キリスト教が、欧洲に入つて現れた組合の中に於て、葬式組合などが、最も古く存在したところを見ると、病人を看護する組合もあつたやうに思はれる。
 初代教會には、共済的精神が、旺盛であつた。紀元十世紀頃の暗黒時代に於てすら、犠牲的なキリスト信徒が、數千人團體を組んで他人の町村にまで行つて河に橋を架けて廻つたといふ奉仕的な架橋組合があつたといふことを歴史は教へる。
 また旅行者の便宜を計るために工人ギルドの間に、各種の共済制度のあつたことも意味深いことである。
 支那に於ては「會」と称するものが、何時ごろ始まつたか判らない程、昔からつづいてゐる。これは、互助組合的な性質を持つたものである。この「會」が日本に傅はつて、宗教的頼母子講となつた。一九四一年(昭和十六年)頃の調査によると、日本全國の農村に於て、約四十億圓の頼母子の契約高があり、その内八億圓は商業的に行はれてゐるものである。
 寺院の建築、學校の建築、堤防、灌漑用水路等の公共的なものも、日本の農村に於ては共済組合的に毎日幾らか、あるいは十曰目に幾らか醵出して、その精神を發揮してゐる。
 それ故、日本の農村に於ては協同組合運動、と眞向からいふと難しく考えてしまつて、農村の人々には理解出来ないが、頼母子講、あるいは無尽頼母子といふと、誰にも判つて直ちに賛成しない者はない位である。
 人口十五萬位の和歌山市の如きは、敗戦前約一萬五千人の戸主が三十六人宛(づつ)、頼母子講に加盟してをり、その總元締が信用組合であるといつたやうな形をとつてゐる。
 即ち、日本に於ける頼母子講は、英國に發達した友愛協會に匹敵すべきものである。
英國に於ける友愛協會は、恐らく世界に於ける最も有力な互助組合である。
そして今日に於ては、英國に於ける庶民金融機闘の一大中心機関であるといふことが出来る。この友愛協會の本質は共済的金融にある。即ち、死亡・疾病・發疾・養老・分娩・負傷等に對する共済的意味をもつてこの運動が始まつた。この友愛協會から今日の生命保險が發達した。國民健康保險制度までがその基礎の上に置かれるやうになつた。
 恐らく、今日英國の國民保險組合に加盟してゐる者の中で約半分までが友愛協會の組合員であり、また友愛協會の會計制度を、健康保險組合の會計として利用してゐる。かくの如く共済組合制度といふものは、まことに重宝なものである。しかもこの制度は、キリスト教的信念をもつて發達したものであると考へらるべきである。
 日本に於ける宗教的頼母子講が、信仰が衰へると共に商業化し、今日に於ては殆んど富籤組合に等しいやうな状態になつてゐるのに比較すると、宗教的な互助意識の差がどの程度にまで共済組合に深い經済影響を持つてゐるかを知ることが出来る。
 失業者共済組合としては、米國ミネソタ州ミネアポリス市にある失業者共済ギルドが、牧師メッケンベルグ氏中心に最も美しい共済組合の一つであると思う。
日本に於て、失業者共済組合を最初思ひ付いたのは、神戸新川の貧民窟の私の傅道を永く助けて呉れた武内勝氏である。
 同氏は、私の勧めに應じて神戸市の不熟練勞働者の間に、共済組合を組織した。
同組合は、昭和二年(一九二七年)から失業者の救済にまで發展した。實は私は、共済組合が失業者救済まで發展し得るとは気がつかなかつた。
 武内氏は、まづ總ての失業者を登録した。仮りに千人が登録したとする。第一日目に、神戸市全體の雇主から二百五十人の求人があるとする。その日、仕事を貰つた者が五銭づつ共済組合に支拂ふ。雇主からも失業救済の意味で賃銀の外に一人当り五銭宛(づつ)多く支払つて貰ふ。
 更に神戸市役所は登録人員一人当り約五銭宛補助を與えるのである。
 第二日も求人二百五十人あつたとする。登録番号二百五十一人目から、第五百番までが就業する。そして残つた七百五十人は全部失業する。かうして毎日二百五十人分宛の仕事があるとすれば、四日目に一度づつ仕事が得られるわけである。四日間の中三日仕事にありつけないで遊んでゐる者は、一日に對して六十銭の失業惠與金を貰ふことが出来る。
 實際に於ては、市役所で色々な失業匡救事業を始めたので、失業の率はそれより少く、従つて惠與金も多く與へられた。
 私は、この失業共済保險制度を東京市に移植した。この失業共済保險制度の特徴は、一ヶ月間続いて仕事に従事した者には、何パーセントか拂ひ戻しをして、出来るだけ失業者をしてドール・システム(Dole System)に陥らないやうに努力したことであつた。ドール・システムといふのは、昔ジュリアス・シーザーが失業保險をしたが、結局遊民怠惰の人々を作つた失敗を指す。それでは何もならない。これは警戒せねばならぬ。
 失業が萬止むを得ないとすれば、かうした共済的保險制度は勞働階級の道徳心を維持し、勤勉なる習慣を持続する上に於て。大袈裟な失業保險制度より有効であると私は考へて居る。
教育共済組合 教育共済組合の面白い發達については、前述の「伏見十六會に學ぶ」の中に一寸書いた。十六會の共済組合は。信用組合をも兼ねてゐた。その利益金の一部で商業学校と女學校を經營し、卒業生の中優秀な者には帝國大學にまで送りその學費全部を支給してゐた。
 仮令、かうした方法を探り得ないでも、各種協同組合の餘剰金の一部を教育保險組合の資金として残して置く。それを組合員の子弟で高等教育にまで進まうとする者に据置無利子の金を貸出す。その学生が他日、世に出た時、年賦なりでこれを償還する方法も出来ると思う。
 私は、勞働街の託見所等を全部この共済組合式方法で經營してゐる。授業料として決定すれば、拂へない者にある悲哀を與へるので、組合員の中で負担し得る最低額を定め、負担能力ある者が持株を多くして經營するのである。
 文明が進歩すればする程、社會成員の心理的能率に差等を生ずるから、どうしても共済組合を確立せねばならぬ。
 失業が起つた場合でも、直ちに次の職業へ移り得る教育機関を設け、その訓練を受ける間教育保險組合の資金を借りて勉強するやうにすれば、失業は完全に免れ得る。
 この種類の共済組合制度の發達は、文化が進めば進む程、一層必要であるから、各種宗教團體の大きい任務として、かうした共済運動の中心になる必要があると思ふ。(続)