協同組合の理論と実際(15) 賀川豊彦

 廿四、保險組合

 第六に保險組合について述べよう。
 保險は近代經済生活中での最もよく發達した部門の一つであるといはれてゐる。
 意識的經済學が發達すればする程、その經済價値行動が猛烈な活動を始める。
 譬へて見れば、生命價値に就いて昔はさう大きな經済價値運動を持たなかつたが、今日では生命保險の問題の如き、國民健康保險のごとき國民經済の内でも最も大きな近代的經済活動となつて来た。
 今日では、資本主義はこの領域にまで進出して来て、当然社會保險的に組織さるべきものを食ひ荒してゐる形になつてゐる。
 生命保險の今日の趨勢を見るに、その契約高は、銀行のそれよりも更に大きな契約高をもつている。
 この未来性を帯びた心理經済的資源といふものは、協同組合化せられて始めて眞の本領を發揮し得るのである。今日の如く、生命保險の經済を少數の資本家に委せて、その集中せられたる金融力を資本主義的に運用する事が恐慌を生み、失業者を続出せしめる最大原因の一つとなつてゐるのである。
 生命保險は、協同組合的に組織せられ、死ぬまでの定期預金の性質を持つたその金を、組合員各自の流動資金に廻すべきである。
 さうすれば、信用組合は絶對恐慌に合ふといふ心配はなくなる。
 私は細かい専門的なことに就てはここでは言はない。然し、生命保瞼を協同組合的に經營すれば、もう一度中世のギルド精神にかへり、精神運動を中心にして互助友愛の精神を増すことが出来る。これは、國民健康保險組合の場合にも同じことがいへる。
 國民健康保險組合といふものは、國家社會主義の理論で、一八八三年にドイツのビスマークによつて始められたものであるが、うまく行かなかつた。何故ならば、協同組合的な訓練を欠いたからである。
 それに反して協同組合的に經營せられてゐるデンマークの如きは比較的によくやつてゐる。
 また英國に於けるかの友愛協會を基礎としたものなどは成績がよい。これはフランスのカトリック共済組合を基礎にした場合に於ても同様である。
 いづれにしても道徳的訓練を源としないものは、かうした新しい社會保險を完成することは出来ない。
 日本の生命保險だけでも、生命保險會社三十一社で、數千億圓の契約高を持つてゐる。この保險を協同組合が運營して莫大な資金を、衣食性のことに、また水力電気等々に活用したとしたら、社會の蒙る恩惠は深大で實にすばらしい事業が出来、人々を幸福にすることが出来る。
 これからの經済では、益々将来に對する時間的保險が加はらねばならない。天災に對する保險、天候に對する保險、病気に罹つた場合、困らぬやうに健康保瞼が要る。
 日本では戦前の統計で年々一萬五千人が自殺してゐる。その中で約二割の三千人位が病気を苦にした原因から死んでゐる。
 もし健康保瞼といふものを作つて、平素から幾らかづつ掛けて居つて、いざ病気になつたら日本の太平洋沿岸の療養所に行く。そして自由に安心して、何年でも静養生活が出来るといふ風な組織をつくつておけば、死を急がなくてもいいし、例へ不自由な療病生活をして死ぬ人でも治るやうになる。その上、肺病患者は減つてくるに違ひない。
 ドイツは戦前には總人口の七割五分が健康保瞼に入つてをり、結核療養所だけで三萬位の病床をもつてゐたので、結核罹病率が減つたといはれてゐた。
 實に協同組合保瞼は、汎(ひろ)く全世界に深い根を卸して、卅五ケ國に確立されてをり、夥多の協同保瞼組合の活動と貢献は素晴しいものがあり。その存在性を充分に正当視されてゐる。(続)