世界国家13 人類の運命と平和への道(1948年3月号)

 ―戦闘的平和運動の展開―
 一九〇七年ノーベル賞をもらったルコント・ドノイの「人類の運命」によると、宇宙進化は、ほとんどその方向を決定している。混雑し混沌とした中から良心生活へまで発展している。人間社会には戦争もいく度かあり、性欲方面の失敗もあった。また病毒、寄生虫のマンエンなどあって混沌としているようだが、それは良心の進化を妨げなかった。こゝまで進化した良心をどう用いるか、これが「人類の運命」を決定する。世界平和の問題にしても、ただ盲目的に平和平和というのではなく、良心的に批判するのでなくては無意味である。平和を説くためには勇気が要る。私が戦闘的平和運動を提唱する所以である。
 基督はエルサレムの神殿で自ら鞭を手にして商売人たちを追払うために「乱暴」をしたが、平和を論ずるにもこれ程の勇気が要る。或者は原子爆弾によって世界平和が来るという。また最近、欧米の神学界では、終末論がたい頭し「人間が平和を来らす」というのは、大それた間違で、人間は神の厳罰を受くべきもので、救いは決して社会的には来ない。救われるものは、個人だけであるという。然し、個人の集合するものが社会である以上、個人が救われるならば社会も救われる筈だと思う。私はルコント・ドノイの所見に同意を表するもので、大局的に云うならば世界はたしかに進化している。徐々にではあるが進歩をしている。ただ問題は、人間が良心をどう用いるかにかゝつている。良心を用いないならば、人間は動物となる外はない。今日の世界を考えると、経済的にも、通信(ラヂオの普及)の方面からも、交通の面=飛行機の発達、米国で発明された音波の倍の速度で走る飛行機スーパーソニツクの出現など=から考えても世界はますます縮まって来ている。そして、正に世界は平和か滅亡かに追いつめられている、かく外部的条件は世界平和に向つて熟しているが、要は、内側の問題如何にかゝつているといつてよい、釈迦は戦争を否定し、階級を打破し、迷信を退けたが、我我は、そうした精神に立ち、キリストの贖罪愛によつて立上るのでなくてはならない。即ち、良心運動を中心に、経済、社会、教育、政治及び自然科学的活動を推進、国際連合を支持し、世界連邦の実現に向って努力したい。但し、私は「一つの世界」といつても、ハンニバルや、ナポレオンや、ヂンギスカンの如く武力や、強制によるのでなく、世界連邦の組織を確立することに依りスエーデン、デンマーク及びスイスの模範に傚ひ絶対に武器を放棄する世界平和の確立のために努力したいと思う。そして、ひつツこく問題に取組んで、富士山の八合目の胸突八丁にも比すべき、世界文化の胸突八丁に敢然としてかゝつている今日、平和への途を拓きたい。今こそ、われ等は起って戦闘的平和運動を展開すべき秋である。(一九四八年三月号)