世界国家28 武蔵野のかえる

 桜はまだ蕾を綻ばせず、麦は大地から、恐る恐る首をつき出して今年の天候を伺つている矢先に、武蔵野の蛙は元気よく、冬眠から醒めて産卵をはじめているのだ。蛇の目ざめる前、野鼠のあばれ出す以前に、裸坊主の蛙は敵のいない事をよく知つて、ちゃんと生命の実相をわきまえ、夕闇のせまる頃、如何にも気持よさそうに、蛙としては珍しい美しい声を出して、一声三声鳴いていた。
 みゝずでも、なまこでも、さては、いかでも、たこでも、原生虫のアミーバや乳酸菌に至るまで、創造主は武装もしていない無防備の生物を地球の上に生かしていられる。武蔵野の蛙もその一つである。
 蛙に角のあるわけではなく、鱗も、甲羅も、毒牙もなければ、鋭い爪ももつていない。しかし、この裸ン坊の蛙は他の動物の目ざめる前に、寒さをおかして産卵する勇気をもつていた。ただそれだけで、この種族の系統はつきないのだ。田の中、池の畔、このあわれな両棲類は岡でも、水中でもさては泥の下でも、冬の間絶食して生きて行く工夫を知つている。こうした天の父は人間から見れば、無産者以上にあわれむべきこの蛙の生存を許して居られる。この蛙が日本だけでも恐らく、北海道から九州のはてまで、何億、何兆生棲しているか知れない。もずに食われようが、蛇におつかけられようが、蛙は種の絶えた事はない。
 これを思えば裸にせられた日本とても、そう心配すべき理由はない。「武蔵野の蛙を見よ、彼等は鉄砲も持たず、飛行機ももたざるなり。されど尚神は武蔵野の蛙を生かしめ給う。まして汝等をや。あゝ日本人よ」と私は叫びたくなる。
 幼い時から田圃のほとりで大きくなつた私は多くの蛙と一緒に大きくなつた。このせちがらい世の中にもう一度蛙を思い出して蛙からゼネ・ストもせず、波状ストライキもしないで裸でいながら結構生活してゆくその工夫を教えて貰いたいと思つている。(一九四八年九月号)