少年平和読本(8)戦争蟻と平和蟻

 掠奪本能のポネリヤと互助愛の愛の蟻の話に
  学ぶところあれ

 アフリカというところ

 みなさんは、アフリカを知っていられるだろう。しゃりこうべのような形をした大陸、そうだ、赤道直下の暑いところで、住民ははだかでくらしている。しかし暑いというだけならいいのだが、そこでは、いろいろの悪い病気がはやる。マラリヤという熱帯病にかかると、おなかの中に水がたまって、こどもでも、相撲取りのような大きなおなかになることがある。ところが、そこにはお医者さんがいない。そのため、なおる病気もなおらず、死んでいく土人が多いという。
 この話を聞いた一人の学者が、はるばるヨーロッパからアフリカへ出かけて、そこで病院を開き、病気の治療をしてあげていられる。その人はシュワイツァー博士といって、もともと、神学者で、哲学者で、その上世界でも有名なバッハの研究者、パイプ・オルガンの演奏家なのだが、文明にとりのこされた暗黒アフリカの、きのどくな土人を救いたいと決心して、今から約四十年前、ドイツのストラスブルグの大学教授の地位をすて、アフリカの中央コンゴー河の流域ラムバレネに出かけて、七十歳をこえた今日も、土人の肉体とたましいの救いのため、一心になって働いていて下さるのである。
 象よりこわいアリ
 ところで、アフリカには悪い病気がはやるだけでなく、いろいろの恐ろしい猛獣や害虫がいて、土人たちを苦しめている。博士の書かれた「水と原生林のはざまにて」という書物を読むと、二十頭からの象がやってきて、一夜のうちに広い耕地をさんざんにあらして行くことが記してある。この象の群れは、自分が食べない果物の木などは片っぱしから、碁盤のような大きな足でふみつぶしていく。耕地の中央の道路に立っている電信柱などは一本一本、からだをこすりつけて、ばたばたとたおして「愉快(ゆかい)、愉快(ゆかい)」とおもしろがっているという。
 しかし象はまだいい。一番困るのはアリだ。なぁーんだ。あんなチッポケなアリなんか、ちっともこわかないや――と思うかもしれない。ところがそうではない。何万匹、何十万匹が一度におしよせて来るのだから――。なにしろ、人間の赤ん坊など、このアリの大群のためにたちまち殺されるという。何? うそだろうって。では、シュワィツァー博士に、実際のありさまを話していただくこととしよう。
 移動蟻の大進軍
 『おそろしいものとしては、小さいサソリや或る害虫がありますが、それにもまして、ドリルス属の有名な移動蟻は大敵で、その害は大きいものです。彼らは五、六列の縦列をつくって行進するのです。ある時、わたしは家のそばで、その縦列の行進を見ましたが、その行進は三十六時間も続きました。つまり一日半つづいたのです。どんなにたくさんのアリだったかがおわかりでしょう。
 行列が広い地面や小みちを行くと、あごの強い戦闘蟻が整列して、その縦列の両側に垣をつくり、幼虫をはこぶ移動蟻の列を護衛するのです。ちょうど、コサック兵が皇帝をまもって行進するときのように、列に背をむけた姿勢のまま、数時間、とまっているのです。
 移動蟻はふつう三縦列か四縦列をつくり、各隊が五、六十米をへだててならんで進みます。そして命令一下、たちまち、ばらばらと散開するのですが、そうなると、地面にいる動物はもとより、樹の上にいる大きなクモなども助かりません。このおそろしい追いはぎは、一ばん高い小枝のところまで、群れをなしてあがっていくのだから――。』
 こうして、地上の動物は片っぱしから犠牲にしてしまうので、そのありさまは、まことに残虐で見ていられないそうである。原生林における軍国主義の暴虐とでもいわばいえるだろう。博士の話はなお続く。
 移動蟻との戦い
 『さて、わたしの家は、ちょうど移動蟻の大軍の進路にあたっていました。彼らの散開はたいてい夜で、ある夜、鶏のあがきと、その独特のなき声とで蟻群来襲に気ずきました。わたしは床をけって起きあがり、鶏小屋にかけつけて戸をあけました。すると、鶏は戸のあくのと同時にとんで出てきました。もしわたしの行くのがもう少しおくれたら、鶏はアリの餌食になっていたにちがいありません。アリは鶏の鼻や口へ群れをなしてはいりこんで窒息させ、またたくうちに食べつくしてしまうので、あとには白い骨だけしか残らないのです。わたしが鶏を助け出している時、妻は壁にかけてある角笛をとって、三度ブー、ブー、ブーと吹きならしました。別棟の病院の男たちは、すわこそ! と、てんでに河の水を手桶にくんで、病院からわたしの家へかけつけ、その手桶の水にリゾールを加え、家の周囲や床下一面にまきました。すると、アリの群れの中から、一騎当千の戦闘アリが、「こしゃくなり」とばかり、大刀ふりかざして斬りかかって来る。それはうそですが、彼らはわたしたちのからだの上へ「ごめん」ともいわないで、どんどん這い上がって来て、、おしりであろうと、おへそであろうと、あたるを幸いかみつくのですからたまりません。わたしはおよそ五十か所ほどもかまれました。
 人間とアリの戦いは、アリ軍がリゾールのにおいにへいこうして、数千の死体を水たまりに残して退却するまでつづきました。わたしは一週間に三度もこの移動蟻におそわれたことがありました。
 タンクのようなあご
 シュワイツァー博士の話していられるように、移動アリの大群が通ると、そのあとは大洪水のあとのようになる。耕地の作物菜っ葉一つのこらないからである。
 土人がこのアリをおそれることは猛獣以上で、蟻軍来る…ときくと、角笛をふきならし、たいまつに火をつけ、それで彼らを焼き払うのだが、アリもさるもの、死にものぐるいになって、大砲、小銃、槍、なぎなた、そんなものはもっていないから、かみつき専門で抵抗して来る。
 あごがただ一つの武器である。で、そのあごたるや、特別に発達していて、まるでタンクのように丈夫にできている。このタンクのあごで一度かみつくと、少しくらいひっぱったのでははなれない。で、ウーンと力を入れてひっぱると、くわえたまま、アリの首がちょん切れてしまう。つまり、死んでもはなさないのだ。
 こういうふうに、一度かみつくと死んでもはなれないので、土人はけがをした時など、傷口をぬうかわりに、このアリに食いつかせ、首を鋏みでちょん切る。五針ぬわねばならぬ傷だったら五匹にかませればいいのだ。消毒してないから危険だと思うかもしれないが、アリのからだの中には蟻酸というものがふくまれているので、自然に消毒ができるのだ。虎は死して皮をのこし、アリは首をのこして人間の役に立つ。まことにアリがたいことではないか。
 戦略戦争をするポネリア
 この戦争好きのアリは、ポネリアといって、蜂の子孫である。昔、ポネリアには羽があって、空中を飛んでいた。蜂のなかまでも、このポネリアは、鬼のような顔をして、けんかずきで、どろぼうこんじょうがあって、なかまのきらわれ者だった。それで蜂なかまから排斥され、そこにいたたまれなくなって、羽をすてて地上におりてきたのである。そのときからポネリアはアリになった。
 しかし、アリになっても、ポネリアはけんかずきで、集団強盗や追いはぎを働いた。ポネリアは近頃の集団強盗の本家であろう、アフリカでの大移動大進軍は、いわば人間の世界の侵略戦争である。つまり彼らは自分の住んでいるところの食物が不足すると、食物の豊富な国を侵略して強奪してこようというのだ。
 それなら、侵略をするポネリアは富みさかえているのかといえば反対である。剣をもって征服する者は、また剣で征服される。ポネリアは人間に焼き殺されたりして、けっして繁栄しないのである。
 これに反し、ポネリアに略奪され、いじめられている一般のアリや他の動物は繁栄している。なぜだろう。弱い動物は弱いながら、たがいに助けあって敵にあたり、また一生けんめいに力を合せて働くからである。アリの中でも、戦争ずきなのはポネリアだけで、ほかの大部分のアリは、平和に楽しく生活しているのである。
 アリの社会の相互扶助
 みなさんは、アリの生活を観察したことが、おありかな。わたしの家でもアリを飼ったことがあった。
 ある日、家のこどもが「お父さん、いらっしゃい、アリがおっぱいをのましてもらっていますよ!」というので行って見ると、なるほど、一匹のアリが大きなあごを開いて、触覚をうしろへやったまま、アーンと口をあけている。これは甘露をあげている方。もう一匹は、あいてのおでこを触覚でなでながら、大あごをとじて、あいてのはきだしてくれるしずくを飲んでいる。
 さきにもちょっと記したように、アリは人間と違って胃袋が二つある。一つは自家用の胃袋。もう一つは共同胃袋で、飢えたなかまのためには、よろこんでその共同用の食糧を供出する。供出しても、報償物資をよこせなんてケチなことはいわないし、出しおしみや横流しなどしない。ただ、ポネリアだけはこの供出をしない。人のものをとって食べるし、自分のものはまたみな自分だけで食べる。ポネリアは侵略主義、軍国主義の上に利己主義なのだから、なかまのつまはじきになるのはあたりまえである。ポネリアはアリ仲間の異端者である。
 もう少し、一般のアリの社会の話をつづけよう。
 アリの農業と牧畜
 アリはりっぱな建築家で、たがいに力をあわせて巣やそのほかの建築をする。道具はあごと前のあしとである。彼らは左官、砂運び、坑夫の仕事もするし、水まきや道普請もする。
 またアリは牧畜をする。梅の木に奇生するアリマキ――理科で習ったことと思う。シラミの親類の小さな虫――などを飼って、そのおしりのところから出る甘露(きたないことはない)をしぼる。ちょうど、人間が牛を飼って牛乳をしぼるのと少しもちがわない。
 ブラジル地方に住むアックという日傘アリは、巣の、ある部分をほって菌園を作り、きのこを栽培する。日傘アリといわれるのは、菌園につかう葉をかみきってきて口にくわえ、日傘をさしているようにからだの上にかざして、長い行列をつくって巣へ帰るので、そういうのである。
 こうして、食糧をあつめたアリは、すぐ食べてしまわないで、冬の用や飢饉にそなえて貯蔵するが、テキサス州の収穫アリなどは、三階建ての倉庫をつくって、その中に職アリが腹一杯、甘露をためたまま、米俵のようにふくれたかっこうをして天井にぶらさがっている。そして甘露がいりようだといえば、天井から下りて来て、腹の中にたくわえた甘露を出して与えるのである。
 こんな風で、アリの社会は、立派な社会組織をもち、また社会福祉事業もおこなわれている。現に、保母も居れば、産婆も、看護婦もいて、幼稚園や病院を経営している。六三制の学校だけはまだないようではあるが――  
 アリは一朝有事のさいは、一致団結して敵に当たり、また協力して危機をのがれる。たとえば、洪水に押し流されたりすると、球のようにみんな一つにかたまって、いかだのようになって流れてゆくから、おぼれる心配はない。そのうち、下積になっているアリが、窒息しそうになれば、外側にいるアリがかわってくれる。そして木の片などにあうと、さっそく全員がそれにとりすがって、一しょに避難するのである。電車の乗り降りに、おしあい、へしあいする人間とはわけがちがう。
 「人間なんていばってはいるが、ポネリアと同じ戦争ずきの動物じゃないか」
 と、アリに軽べつされないようにしたいものである。
 暴力否定へ
 アリは、この互助の習性のあるため、あのちいさな動物でありながら、強者のためほろぼされることもなく、かえって繁殖していっている。つまり、戦争を好まず、平和を愛するアリは、ほろびることがないのだ。
 ところが、戦争アリのポネリアはどうだ。彼らは他を侵略することを知って、平和にくらすことを知らない。こうした、互助の風習のない戦争好きの動物は、だんだんとほろんでいくのである。
 人間も、戦争のような残虐行為、暴力行為をさっぱりとやめて、たがいに相愛し、相たすけあって行かねば、やがてはポネリアと同じ運命をたどるにちがいない。
 わたしたちは、小さなアリに笑われないよう、平和な世界、戦争のない世界を作ろうではないか。