少年平和読本(9)平和な小鳥の世界

  敵が来れば飛んで逃げるだけ
   愛情をもつ人には警戒をしない
 幼き日のわが友

 たがいにくみあい、うばいあい、殺しあいをして、道徳も愛もわすれている人間は、小鳥にその純潔と、道徳とを教えてもらわねばなるまい。
 平和な小鳥の世界! 小鳥はなかま同士相親しみ、相助け合って、おたがいに殺しあうこともないし、わずかの穀物で満足して人のものをうばいとろうともしない。また、たとえ籠の中にとらわれていても、かくべつ不平もいわず、ほがらかに歌をうたっている。そのなごやかさ、その明朗さを見ると、わたしたち人間は、小鳥のまえにはずかしくさえなる。
 阿波の吉野川の流域で幼年時代をすごしたわたしは、小鳥を友として成長した。隣家のおじさんが小鳥好きで、いろいろの小鳥を飼うことを教えてもらった。
後年、労働者街で保育所をはじめるようになって、わたしは幼年時代を思い出し、こどもたちにも、神のつくり給うた美しい平和な小鳥をみせたいと思って小鳥を飼った。また武蔵野の一角に住むようになってからは、森に来る小鳥を知るため、自分の手で小鳥を飼いたくなって、鳥屋から黒ツグミを買ってきて飼ったが、ツグミは籠に入れられていても「きゅうくつだい」ともいわず、澄み切った小川の流れのような、美しいメロディーでうたってくれた。わたしが指先を出すと、それにせっぷんして愛情をしめしてくれた。こうして半年、一年、ツグミと親しくなっているうちに友情がふかくなって、籠の戸を開けておいても、一こう逃げようとはしなかった。ところが、こどもが猫を飼うようになってからというもの、ツグミはおびえるようになって、ある日、水をかえようとして窓を開けたせつな、外へ出てそのまま帰ってこなかった。危害を加えるものがあることを知ると、小鳥はしたしまなくなり、逃げ出そうとするのである。
 猫とも仲よしの小鳥
 野鳥の会中西悟堂さんの家では、いろいろの小鳥を室内で放ち飼いしていられるがこれらの小鳥は同家の猫ともよくなれて、猫が日なたぼっこをしていると、そのそばへ行ってくちばしでつっついたりするという。中西さんの家では、猫をはじめから小鳥をいじめないようにしつけてあるからである。猫は小鳥がくちばしでつっついても、一こう怒りもしないで、うるさいやつだなァ! といわんばかり、背中を山のようにもちあげて、アーンと大きくあくびをすると、そのままノソリ、ノソリと、ほかへ行ってしまう。中西さんの名著「野鳥と共に」の口絵を見ると、ヨシゴイという小鳥が、猫の背中にちょこなんととまったり、昼寝の猫の腹の上につっ立っている写真がのっている。
 中西さんは大ルリ、虎ツグミ、頬白、ムク鳥、セキレイ木葉ヅク、カワウ、尾長などいろいろと飼われたが、みな幼鳥時代から飼育されたので、人間にいじめられた経験もなく、すっかり飼主にしたしんだ。それも、籠の中で飼うのではなく、さながら家族のように、自分と同じ部屋で放ち飼いにして、すこし大きくなると、中西さんがビスケットを口うつしであたえ、またお茶や紅茶も、人間と一しょにすすらせるので、小鳥も中西さんをまるで自分の親のようにしたって、指先にとまったり、膝の上へのぼってきて居ねむりをしたり、片時もそばをはなれようとしないのである。
 中西さんのところで飼われる小鳥は、みな「ウー公」とか「チー公」とかいう名前がついているが、どの鳥も自分の名をおぼえていて、呼ばれると高い木の上にいても飛んで来るそうだ。お父さんやお母さんに呼ばれても、おみこしをあげない人は小鳥に笑われよう。
 叱られるとあやまるカラス
小鳥は頭の悪い動物ではない。それどころか、たいへん敏感である。尾長などは、飼主の足音とほかの人の足音とを聞き分けて、ドアのそとに中西さんの足音がすると、すぐドアのところまできて待っているという。その上、人間の心持をさとって、中西さんがゆかいにしていられると、尾長もゆかいそうにし、気むずかしくしていられると、尾長もふきげんになって、いうこともなかなか聞かないという。それで、尾長のいるところ   もちろん中西さんの部屋である   へ、入る時には、まず心しずかに落ちつけて、なごやかなきもちになってからドアをあけることにしていられるそうである。
 小鳥ではないが、あのカラスは、人の顔色をさえ見る。中西さんは室内の家具の中でもソファだけは、ふんでよごさせたくないので、そこへカラスのとまるのを禁じたのだが、ふしぎにカラスはそこが好きだと見えて、中西さんの姿が見えなくなると、そっとソファのもたれの上にとまる。ところが、中西さんが戻って見えると、カラスはすばやくほかへ飛びのいて「わしは知らんよ」とすました顔をしている。ようすを察して「いかんネ。ソファへとまって!」といってしかると、カラスは頭をたれて「かんにんしてちょうだい」といったようなかっこうをしてあまえるという。
 こういうふうに小鳥は敏感で、愛情をもって近ずく人間には、なんの警戒心ももたずにしたしみ、悪意をだくものは、すぐカンでさとって警戒し、または敵意をしめすのである。
 説教に耳を傾ける小鳥
 あなたはジョットオの描いたアッシジの聖フランシスが、小鳥に神様のお話をしている図を見たことがあるだろう。あれはけっしてフランシスを理想化した作り話ではなく、あちらの修道院では、いきものをかわいがって、けっしていじめないので、鳥が人間をおそれず、人の手からたべものをもらうのだ。だから、フランシスは、身近く来る小鳥に説教することもあったに違いない。
 パリのリュクサンプール公園のスズメや、アメリカ各地の公園にすむリスなどは、奈良の鹿と同じように人にしたしんで、食物を人からもらうので有名だが、これもフランスやアメリカ人たちが、スズメやリスをいじめないからである。
 ところが日本はどうであろう。スズメと見るとおとなまでが空気銃で罪もないものをうつ。またスズメの巣を見つけると、母スズメが大切に育てているヒナをぬすみ出しておもちゃにして殺してしまう。それだから人里近くすんでいるスズメでありながら、まるでいじ悪のタカかワシ同様に人を警戒して近よらない。
 人間がいじめなかったら、野の小鳥はもっともっと自由に、そして美しい声でなくにちがいない。ムク鳥は日本ではあまり美しい声でなかないが、猛鳥もいず、また小鳥をいじめる「猛人」もいないニュージーランドでは、ムク鳥がほかの小鳥と一しょに、かわいい声をしてないているのを、わたしは聞いて驚いた。
 平和な世界では、鳴禽類の歌も一だんと進化する。わたしは熱帯地方の平和な境で、夜明前、小鳥がうれしそうに歌っているのを聞いて、自然というもののすてがたいことをつくづくと考えさせられた。
 鳥類の母性愛
 鳥類は愛情の深いもので、昔から「焼野のきぎす、夜の鶴」ともいって、とくに小鳥の母性愛は有名である。「夜の鶴」といわれるのは、しばらくも休みなく餌をねだる子鶴のために、夜ふけてからも、えさをあさりに出かける母鶴の愛をいったものである。
 ペリカンも母性愛のふかい鳥で、子のためわが胸をさいて、その血を子にすすらせるといわれているが、それはまちがいで、自分が十分そしゃくして、なかば液体になった餌を、子に口うつしであたえるのだ。
 これに似たのが鵜(ウ)である。ウは食道の一部に小魚をたくわえて帰ってきて、ア―ンと口をあけてヒナにそれをついばませる。人間はこれを利用して、せっかくウのとってきた鮎を横取りする。これが長良川などの有名な鵜飼である。
 鳥は母性愛のみならず、夫婦愛もほかの動物にまさってふかいことは、仲のよい夫婦を「オシドリのようだ」というのでもわかるだろう。鳥の中にはさきに話したダ鳥などのように、一夫一婦のものが多く、貞操観念もこのごろの人間よりもはるかにかたい。
 母性愛でしられる鶴は、夫婦愛もふかく、つがいをはなれた鶴は人間いじょうに悲嘆にくれる。昔、日本にたくさんの鶴が居た頃の話だが、ある外人がつがいの鶴の一羽を銃でうって、大とくいで帰ってきたところ、あとの一羽が気ちがいのようになってあとから追って来て、その外人の頭を長いくちばしでつっついて、とうとう死なしてしまったという。
 鳥はまたヒナを育てるのに、夫婦仲良く協力するものが多い。中には、カナリヤや文鳥やジュウシマツのように雄が雌にかわって卵をあたためたり、ヒナを育てるのがあるし、またトビや白鳥や鶴の雄のように、ヒナは育てないけれど巣の近くに見張りをしていて、害敵にそなえるものもいる。
 三十六計に逃ぐるにしかず
 鳥の愛情のふかさは非武装のための自衛ともいえる。きばも、つめも、つのも、はさみも、歯も持っていない鳥、そして貝穀や、甲らや、うろこで保護されてもいない小鳥は、けだものや猛禽の前にまったく、抵抗力を持っていないのである。鳥の武器といえば、くちばしぐらいで、鶏科の鳥はこのほかにけずめをもっているが、小鳥になると、それはたとえあっても微力で、猛禽にねらわれたらさいご、敵対するすべを知らない。のこる自衛手段は、ただ三十六計逃ぐるにしかずである。敵からのがれるために飛ぶことと、敵の目をくらますために、花や葉の色とまぎらわしい色彩をもつことと、そして身をかくすため安全地帯に巣を作ることだけで、あとは、仲間が助けあうというよりほかに道はない。
 中でも飛ぶことは鳥の一番有効な自衛手段で、スズメやヒヨなどは空へ飛びにげるだけでなく、タカの羽音を聞くと、地上をはうようにして飛んで、その追撃をのがれることを知っている。またハトは害敵におそわれると、奇妙なカーヴをえがいて逃げる。これはたぶん三十六計の中の一計なのであろう。
 武装をしていない無抵抗の小鳥は、かわいい子を安全に育てるため、巣の形や位置に苦心する。千鳥やカモメやカワセミは、地面や地下に穴をほって産卵するが、多くの小鳥は樹の上や高い岩の上などに巣をかまえる。中でもおもしろいのはアフリカの織布鳥で、ヘビや猿の襲撃にそなえて、蔓などの繊維を利用して、安全な木の枝から巣をブラリとさげて、空中住宅としゃれている。また中には樹の幹に穴をあけて住んでいるものもあるが、アフリカから南アジアにすむ二本の角のある大角鳥は、樹木のうつろか、または自分で樹に穴をうがって、その中に巣を作り雌が自分の羽毛で作った産所で卵をうむと、雄は巣の入り口を、わずかにくちばしがのぞけるほど残して、あとはすっかり泥でぬりつぶして、敵の目のつかぬようにするそうである。
 もし生存競争が、この宇宙を支配する唯一の法則だったら、この武装のない小鳥は、猛獣や猛禽に食われて絶滅するばかりだが、事実はそうでなくて、こうした、かよわい小鳥も、それぞれ自衛手段を講じて生存し、猛獣や人間とはくらべようのない平和なたのしい生活を送っているのである。
 人間の益友を愛しよう
 なお最後に一言しておきたいことは、この小鳥が人間の生活のためになっている点の多いにもかかわらず、人間がこれをいじめていることだ。たとえばツバメである。もしツバメが日本に一羽もいなくなったらどうだろう。ツバメがとってくれている害虫を人間の手でとるとなると、六万人の常備者が入用だという。戦時中から戦後へかけて、山林を濫伐し、鳥のねぐらをこわしたり、かすみ網や鉄砲で鳥をとって食べたりした結果戦前に八七二通りもいた鳥が、現在では五百二十通りに減って、そのため害虫がまんえんし、松など、枯れ死するものが数百万石に達しているという。
 わたしたちは人間の益友である小鳥を、もっともっと理解し、保存し、かわいがらねばならない。