少年平和読本(10)武装を解いたタコ入道

  四億年前、甲らを身につけて
     けんか好きのタコであったが        
 戦争好きの魚と平和な魚
 あなたは、アジという魚を見たことがあるだろう。食べたことがあるから、アジは知っているが、アジの形は、はっきり知らないって? ところが、そのアジという魚はおそろしく乱暴な、というよりは、戦争ずきな魚だということをあなたはご存じないであろう。アジは、あいてが弱い小ざかなだと思うと、もちまえの大きな口をあけて、パクリとたべてしまう。おなかがすいてたべるのだったらしかたがないが、そうではなく、満腹の時でも小さい魚を見ると、ついいじめたくなってパクリとやる。その證據には、せっかく口に入れた獲物も、かみ殺すだけで、胃袋へ送らずそのまま吐き出してしまうのだ。こうして、やたらに弱い者をいじめてよろこんでいるのだから、やっかいな魚だ。こんな乱暴な魚がいるかと思うとまた一方には平和な魚がいる。あなたはタコを知っているだろう。アジばかりではなく、形も知っているだろう。あのヒレもなにもない丸坊主の、目のとび出たぶかっこうなタコ入道を。
 タコはイカ同様、軟体動物で、動物学の分類によると頭足類、八腕目というのに属している。頭足類というのは、頭と足がくっついているからで、八腕目とよぶのは、腕が八本あるからだ。誰でも「タコの足」というが、あれは足ではなくて腕である。タコだって足でご飯をいただくという作法はないではないか。
 それはともかく、このタコを英語で「悪魔の魚」(デビル・フィッシュ)という。これはタコのかっこうが変てこだからつけたものにちがいないが、タコは悪魔どころか、まことに平和な、優しい魚なのである。これからそのお話をしよう。
 タコはたしかにきりょうはよくない。シェークスピアの「ハムレット」に「美人で貞女はないものだ」というセリフがあるが、器量のよい人が心のきれいな人ときまっていないように、器量の悪いタコが、性質まで悪いとはきまっていない。でも、あんなグニャグニャとしたこんにゃくのおばけのような魚は、どうも――というか。それは形だけを見て全体を判断した軽はずみな言葉であろう。
 タコは、見かけは骨なしで、徳義も節操ももたない動物のように思われるが、実際は見かけによらぬ気骨にとんだ、外柔内剛のしっかりした信念の持ち主だといっても言い過ぎではないのだ。
 人間の体をささえているのは背骨だが、タコにはそれがない、と思われている。もちろん軟体動物のことだから、硬直した背骨はもちあわせていない。けれども、それにかわる甲をもっている。
 いいえ、体の内側に用のある、ないどころの話か、昔にさかのぼると、今は骨なしと思われているあのタコにも、亀やカニと同じように、外側にりっぱな、いかめしい甲があったというのだから驚くではないか。昔々のタコは、けっして今のような入道ではなく、堂々と、よろい、かぶとで武装していたのである。そして外敵にむかっては、いさましく戦っていたものだという。青道心蓮生坊も、昔は武蔵の国の住人熊谷治郎直実だったというに似ている。
 タコの祖先を調べてみよう。
 四億年前のタコ入道
 タコは今から四億年前、地質学でカンブリアン時代といわれる時代に、この地球上にすんでいた。そんなことがどうしてわかるかって――甲をかぶっているタコの化石が中華民国にのこっているからだ。
 四億年前の遺物があるのだから、中華民国という国もどんなに古い国かということがわかるであろう。そこへいくと日本は新しい国だ。神話――歴史ではない――によると、クニトコタチの尊から、イザナギイザナミの尊まで天神七代と、天照大神からウガヤフキアエズの尊まで地神五代をあわせて百七十九万二千四百七十年だというからこれに神武天皇以後を合算しても百八十万年にはならない。しかも、この数字は根拠のないほんのお話なのだからあてにはならない。それで、発掘物によって年代を数えるよりほかに方法はないのだが、今日までに日本で発掘されたかぎりでは、石器時代の遺物もそう古いものではない。日本人の祖先は、だから中華民国に比べるとずっと新しいのである。
 これに反し、タコは日本人の祖先がまだうまれていない四億年前にいたのだが、そのころのタコは武装していた。多分、武装していたころのタコはかなり、けんかにも強かったにちがいない。何しろ八本の手をつかうのだから、宮本武蔵の四倍のはたらきができようというものだ。
 ところが武装していたタコは、つくづく武装のおろかさを感じるようになった。というのは、タコは河底ふかく沈んだり、河の表面にうかんだり、たえず動くのだが、そのたびに、潜水作用をせねばならない。タコには潜水艦のように体内に枝葉状の管がとおっていて、水が入ったり出たりするしかけになっている。河底にもぐろうと思うと、管の中の空気を外へはき出す。すると、空気のかわりに水が入るので重くなってぶくぶくと沈んで行くし、反対に、河上にうかびあがろうと思えば、水を吐き出して、かわりに空気を入れて体重を軽くする。そうすれば、うき沈みが自由だ。ところが、四億年前のタコは、今のタコとちがって、外側にカブトをかぶって武装していたのだから、うき沈みの動作が、きびんにはできない。潜水具を身につけている潜水夫と、はだかの普通の人間とでは大変な違いだ。
 そんなめんどうなものなら、ぬいですててしまったらいい――って? まったくその通り。四億年前のタコも、あのぶかっこうな頭をかしげて考えた末、とうとう、今あなたのおっしゃったことと同じ考えに達したのだった。
「そうだ、思いきって武装を解除しよう」とね。
 武装を解除した勇者
 もっとも、武装をとくとなると、敵の襲撃を受けた場合、危険は加わる。しかし、神様は生物の世界にも目をそそいでいられて、武装していないからといって、そうむやみに強いものにいじめられるようなことのないように、自然の統制が行われていることは今までに説明してきたとおりである。そうだろう。強いものが弱いものを片っぱしからたおして行くとしたら、生物は、しまいには世界一強いものが一匹しかのこらぬことになる。だが、生物はなかなかへっていくどころか、か弱い生物がかえって繁殖していっているのである。
 百獣の王ライオンなど、空腹でさえなかったら、目の前を兎が通っても、知らぬ顔をしているそうだ。すべての動物が、はじめに話したアジのように戦争好き、弱いものいじめばかりではないのだから、そう心配したものでもない。それに、わずかばかりの武装をしていたからといって、ぜったいに安全だとはいえないことは、亀が證明している。
 亀は今でも、あのぶあつい甲らを背中にも、おなかにもかぶっていて、外敵が来ると頭と尾をその甲らの中へかくす。つまり、防空壕へ待避するのだ。しかし、それで安全であるかというと、そうではない。タカが亀を見つけると、その脚の爪で亀をひっつかんで、空高くまいあがり、岩や石のあるところまで運んで行って、急速度で下降して、その岩角や石の上に亀をぶっつける。そうされれば、どんな千枚ばりの甲らでも、たちまちこなごなになるのはきまっている。そこでタカはゆうゆうと下りて来て、亀の肉のごちそうにありつくという。
 そういうわけで、甲らがあるからといって――つまり軍備があり、武器をもっているからといって、安全ということにはならない。まあいって見れば、武器のあるなしは五十歩百歩の差にすぎないのである。
 それよりも、そんな頼みにならぬ武器など、きれいさっぱりとすててしまい、無防備の丸腰になって、進退がきびんにできるよう、身軽になった方がどれだけいいかしれない。
 かしこいタコはこのことに考えつくと、思いきってカブトをぬいでしまった。カブトをぬぐといっても、降参したのではない。むしろその反対で、「無抵抗的抵抗」を決心したのだから、非常な大英断といわねばならない。これはよほどの強い意志と、かたい決心がなければできないわざである。
 みずから進んで武装をといたタコは大勇者といえよう。
 こうしてタコは武装をとき、軍備を撤廃し、戦争の放棄を宣言した。この大宣言の日から、タコのカブトは姿をけした。しかしまったくなくなったのではなく、甲は内がわへ移動し、かわって内側の肉が外側に出て甲を包んだのである。武装タコが文化タコにかわったのだ。
 それから四億年、タコは軍備をもっていないにもかかわらず、無事に生存をつづけて今日におよんでいる。
 こんど、我が国が憲法戦争放棄を規定したのを聞いて、タコはきっと平和日本万歳! といって、双手をではない、八本の腕をあげて、祝ってくれたにちがいない。
 平和戦法の墨汁
 タコは四億年前のカンブリアン時代には戦争していた。だが武装のおろかさをさとり、平和を愛して戦争を放棄し、平和な軟体動物に転身したのである。平和な軟体動物になっても、タコ族は外敵にほろぼされもせず、四億年存続してきた。そればかりか、タコは自由となった。もし戦争放棄、軍備撤廃をしていなかったら、タコは亡んでしまったか、さもなければ、少なくとも、タニシやハマグリ、サザエのように、今も甲らの中にきゅうくつな思いをして、いきていることであろう。
 タコは丸腰になった。そこで、神様は日本の警察がサーベルをはずして、かわりに警棒をもたせられたように、カブトのかわりに墨汁をあたえて身を守るようにとおっしゃった。つまり、外敵が来ると、たちまち墨汁を放出してその所在をくらまし、敵の攻撃からのがれることができるのである。
 煙幕をはって戦禍をまぬがれるタコの平和的戦法は、見上げたものではあるまいか。
 こうしてタコは平和な動物として、亡びるどころか、かえってだんだん大きくなって行くばかりである。