少年平和読本(12)剣の征服者は剣に亡ぶ

  侵略者の末路を見よ。彼らを英雄と呼ぶな。
    彼等は暴力団員にすぎない

 トルストイの童話


 昔ロシアのある田舎に、一人の貧しい百姓が住んでいた。自分の所有地が少ししかないので「もっとたくさんの土地が欲しいなあ」といい暮らしていた。すると、ある大地主がそれをきいて
 「では、これから馬に乗って、夜までの間に、ほしいと思う広さの地面のまわりをまわっておいで。そうしたら、その地面をそっくりお前にあげるから――」
 といった。百姓は大喜びで、さっそく馬にのって出かけた。百姓は一坪でもよけい地面をもらおうと思い、できるだけ遠回りしてかけていった。昼が来たが、食事をするひまもおしく、さきへ、さきへとすすんだ。気がつくと、太陽はいつのまにか地平線のかなたに沈もうとしてる。けれども、もう少しと思って、なお先へと進んだ。おなかはペコペコ、喉もからから、日はとっぷりとくれて道さえわからない。そこで百姓はあきらめて、帰途についた。しかし、馬はつかれているので、いくらむちを加えても走らない。百姓も綿のようにつかれてたおれそうだ。けれども、今夜中に家へ帰りつかなければ、せっかく、欲張って広くしるしをつけて来たその地面ももらえない。それで、息もたえだえのうちから、むちを馬にあてて家の方へとかけて行った。そしてやっと家に帰りついて、やれやれと思うと同時に、あまりのつかれのため、百姓の息はたえた。
 この慾張りの百姓は、一体どれほどの地面を大地主からもらったのだろうか。彼のもらった地面というのは、自分のなきがらをうめる六尺にもたらぬせまい地面だったのである。
 笑えないイワンの馬鹿
 これはトルストイの童話にある有名な話だが、これに似た事実物語をあなたは聞かなかったろうか。野心まんまんの政治家や軍人が、領土をひろげ、権力慾を満足させようとして、しくじり、自分のみか、国民全体を苦しみに泣かせ、領土を広げるどころか、もとの領土さえせばめてしまったという「イワンの馬鹿」を笑えない実例を、あなたは実際に知っているはずである。
 世界歴史をひもとくと、そこには、たくさんのいわゆる英雄豪傑が、この童話の主人公と同じ運命をたどっているのを見ることができよう。シーザー、ハンニバル、ナポレオン、近くはヒットラームッソリーニなど、みなそれだ。
 シーザーなどは、ガリヤを征服したのをてはじめに、各地を侵略してローマの版図をひろげ、一時は飛ぶ鳥もおとすいきおいだったが、グルタス、カシウスらのためにローマの議事堂で刺し殺され、カルタゴハンニバルも、古来屈指の名将とうたわれたが、シビオの一戦に敗れて国外に追われ、ローマ人にとらわれるのをおそれて自ら毒をあおいで死んだ。
 さらにナポレオンにいたっては、西ヨーロッパをその馬蹄の下にじゅうりんしたが、イワン同様、欲張りすぎてロシアに攻め入ろうとして成功せず、ついで、ウォーターローの戦いにやぶれて世界征服の野望もむなしく、セントヘレナの孤島に、配所の月をながめつつ、さびしく生涯を終わった。
 つまりナポレオンはイワンの馬鹿と同じ運命をたどったといえよう。
 真の世界征服者は誰か
  ナポレオンは自分のしたことが正しいものでなかったことをさとったらしく、セントヘレナの病床にあったとき側近者が
 「あなたの英名は世界の征服者として永久にのこるでしょう」
 といって慰めたところ、彼は頭をふって
 「そうではない、わたしは世界征服の失敗者だ。そして永久に人々からひなんをうけるだろう」
 といった。で側近者が
 「ではあなたをほかにして、誰が世界の征服者ですか」
 と問いかえすと、ナポレオンは言下に答えた。
 「それは、人類のために、はりつけになって死んだ、ナザレの大工イエスこそその人だ」
 まことにその通りである。剣をもって征服した者は剣でたおれる。古来、侵略戦争の下手人たちの末路はきまっている。そして、この侵略者を出した国家はほろび、その国民は流浪すらするのだ。国敗れて山河あり、かっては世界歴史の上にかがやかしい名をとどろかせた国で、今はそのあとさえ判然としないものや、名はあっても昔の面影をとどめないものなど、あなたがたはその幾つかを知っているにちがいない。日本もあぶないところまで行ったことがあるのだ。
 豊臣秀吉東條英機
 最近、記録文学というものが流行して、太平洋戦争の真相がさらけ出され英雄きどりの戦争犯罪人がイワンの馬鹿のまねをしたことがばくろされ、わたしたちをふんがいさせているが、わたしは東條らのアジア侵略の夢物語をよんで、ふと、昔、聚楽第の金らんどんすのしとねの中で、秀吉がゆめみた夢を思い出したのである。
 辻善之助博士によると、秀吉は朝鮮陣の前、天正十九年に、支那からさらにすすんで印度遠征ののぞみをいだき、また同じ年にフィリッピンにむかって入貢をうながし、ついで朝鮮陣の最中の文禄二年には台湾にむかって降服をもとめたという。つまり、東條らのくわだてたアジア侵略をそのまま、秀吉は三百五十年前に考えたので、東條らは、だから秀吉のまねをしたにすぎない。
 秀吉は彼のプランが、数年たたぬうちに実現するものと確信していた。その證據が今なおのこっている。それは秀吉が軍を支那へ侵入させるにさきだって、支那四百余州の処文法を、肥前名護屋の本営から大阪へ書きおくった文書である。
 戦時中、朝日新聞社が上野の博物館で日本文化史展を催した時、秀吉の花押のあるその時の文書が展観されていた。それによると、日本の都を北京に遷し、そこへ天皇に移っていただき、北京のまわり十カ国を御料としてさしあげる。日本内地は隠居場所として浮田秀家?におさめさせる。そして、秀吉は諸将をひきいて支那から南下して、南方アジア一帯を一手におさめ、アジアの関白になろうというのであった。(なお別の資料によると、支那皇帝の姫を日本天皇の妃にさしあげ、日華親和のくさびにしようとしたともある)。もし秀吉が数年長生きをしていたら、きっとこの無暴の企てをやったにちがいない。そして、もし、それが東條の場合のように失敗したら、日本は一体今ごろはどうなっていたろう。考えると身の毛もよだつ思いがするではないか。
 侵略主義の卵たち
 こうしたアジア侵略の夢は秀吉だけにとどまらず、これにつらなる諸侯の面々も、それぞれ身にあった夢を見ていた。たとえば、鍋島直茂肥前の領地を返上し支那へ転(てん)封(ぽう)していただきたいと秀吉に申し入れ、亀井武蔵守茲矩にいたっては、まだ取りもしない琉球を自分に賜りたいと大まじめで願い出たところ、秀吉は「ういやつじゃ」とほくそ笑んで、すぐさま「琉球守」に任じたという。ところが、さらにおもしろいのは、琉球守は間もなく他へ転封を命ぜられた。琉球守大いにふくれて、御墨付をひらいて見ると、何と「台州守を命ず」とあるではないか。台州は台湾のことで、もちろん、まだ日本のものになったわけではなかった。もし秀吉がもう少し長命していたら、きっと印度守、安南守、タイ守などが、つぎつぎできていたにちがいない。
 太平洋戦争がはじまって間もなく、わたしは某省関係のある委員会の委員に任命され、同省の大官と会談する機会を与えられたが、その時、大官たちは「ボルネオ総督ならまんざらでもないな」とか「同じ暑いところへやられるならハワイ総督にしてほしい」などと、亀井琉球守と同じようなことを本気で語っていて、平民のわたしをとまどいさせたのである。戦争の犠牲となった民衆の涙をよそに、ひたすら権勢を得んとあせる者の出るのは、今も昔もかわらないらしい。ああ、何とイワンの馬鹿の世に多いことか。
 しかし、日本は世界にさきがけて戦争を放棄した。もうイワンの馬鹿のお話のような慾ばりはコリコリだ。侵略戦争なんか桑原々々である、わたしたちは侵略者の末路を、いやというほど見せつけられたのだから――。
 暴力の英雄となるな、心の英雄となれ
 われわれは今こそ声を大きくして戦争放棄、永久平和の実現をさけび、ふたたび秀吉や東條を日本から出さぬようにせねばならない。そして戦争から日本を、いや世界破滅から全世界を救い出さねばならない。
 少年諸君よ。諸君の中から、ナポレオンや秀吉や東條が出てはならない。「人食い狼」といわれるようないわゆる英雄豪傑は、もう一人も出てはならない。諸君は大臣大将大金持ちとなるよりも、むしろ、たとえ無名でも世の益となる人とならねばならぬ。ナポレオンがみずからしめしたように、剣をもって世界を征服する者は剣でほろぼされる。しかし、ナポレオンもいったように人類のために貢献し、世を益する者は、たとえ、はりつけにあって殺されても、その人は永久に世界を支配するのである。諸君は、暴力の英雄としてほろびる者とならず、心の英雄として永く栄える者となっていただかねばなない。