少年平和読本(13)食糧不足から来る戦争

  マルサス人口論を盲信するな。
    食糧資源を得る道はある

 複雑となった近代の戦争

 遠い昔の戦争はともかくとして、近代の戦争は、侵略者のせいだ、と一がいにはいえなくなってきている。社会の進むにともなって、戦争の原因も、しだいにふくざつとなってきたからである。
 もちろん、近所の弱小国や未開の国を侵略することは、今も昔も変わりはないが、その原因なり、目的なりが、単なる権力慾だけではなく、たとえば、人口が増加して自国の領土内だけでは食糧が不足になってきたとか、工業生産の原料が、自国内だけでは自給できないとか、生産品を売りさばく新しい市場が欲しいとか、そういったいろいろの経済的原因などから、領土をひろげ、植民地を得ようとして戦争をしかけるものが多くなってきた。
 アメリカのタムソンという社会学者は「世界の各地には人口が増して自国の資源だけではやっていけない国もあれば、反対に人口が少なくて豊富な未開拓資源をもてあましている国もある。このような事実は世界の平和をおびやかし、戦争を誘発する最有力の原因でなければならない」――といった。日本はその適例である。
 もたざる国日本の場合
 日本という国は西太平洋地帯の全面積のわずか二・五六パーセントしか占めていないのに、その人口は昭和三年に、その十五・五二パーセントを占め、人口の密度は一平方哩(まいる)について約四百四人を数えて今にもハチきれそうだ。それでも資源が十分ならまだしもだが、食糧を供給する農耕地は総面積のたった十五・五パーセントしかなく、農家一戸当たりの耕地面積はたった二エーカー半で、アメルカのそれに比べると三十分の一にしか当たらない。これで、今にもはちきれそうな人口を養える筈はないではないか。また鉱物資源はと見ると、石炭にしたところが、地下埋蔵量は約八十億屯で三四十年で命数がつきようという貧弱さだ。石油に至っては埋蔵量わずか五億バーレルで、アメリカの一年間産出高とほぼ同じで、二十年もしたら枯れてしまう。こんな貧弱な資源で、増していく人口をやしなうとすれば、どうしても工業の発達をはかるよりほかはない。つまり海外から原料を輸入して、それに加工して輸出するのだが、これがまた至るところで諸外国と角をつきあわせる。では、日本はどうしたらいいというのか。タムソンは、平和のために蘭印やボルネオ、ニューギニア仏印、豪州、フィリッピンを日本に開放してやれといっていた。しかし日本の軍閥は与えられるのを待たず、せっかちにも暴力でうばいとろうとして失敗し、日本を敗戦にまでもちこんでしまったのである。
 こうした例はひとり日本にかぎったことではない。近代戦争は多少の差こそあれ、みんなこうした事情が、伏因となっている。そんなわけで、その国としては、たしかに理由があるわけであるが、しかしそうだからといって、他国を侵略してもいいというりくつは成り立たない。ことに、侵略される側にまわって、暴力で領土や権益をとられる国家は、たまったものではない。しかも今日まで、弱小国、未開国とよばれた国々は、いつも強い国のためにこうして蚕食されて来たのである。
 マルサス人口論は正しいか
 本書のはじめに、ちょっと述べたが、今から百五十数年前(一七九八年)英国の経済学者マルサスは「人口論」という学説をとなえだした。マルサスは「人口というものは1から2、2から4、4から16というように、等比級数で増していくが、食糧は1から2、2から3、3から4というように等差級数でしか増さない。その結果、人口にくらべて食糧が不足し、貧乏となり、疾病や犯罪がうまれ、戦争さえおこって、そこに、自然淘汰による人口の自制(自然的人口制限)が行われ、後には婚姻の延期などによる道徳的抑制(道徳的人口制限)が行われる」と説いたのだ。ここで間違わないでいただきたいのは、このごろ、しきりにいわれる産児制限は、このマルサスの説ではなく、新マルサス主義といわれるものなのだ。マルサスの説が、自然的、道徳的人口制限をいっているのに反し、新マルサス主義は理知的、人為的な人口統制を説いているのである。
 マルサスによれば人口は食糧の増加率を越えて増すから、貧しい人たちの中からは栄養不調者を出したり、病気がふえたりして死ぬ者もふえ、また戦争がおこってたくさんの犠牲者を出し、自然淘汰によって、人口と食糧のバランスがとれるようになるというのである。
 このマルサスの学説にかこつけて、日本の軍閥やその一味は、人口のハケ口と、食糧資源の供給地をもとめるために戦うことを当然の権利のように考え、「大東亜共栄圏」などといって、他国へ侵略していったのである。
 食糧資源は不足しない
 ではマルサスのいうように世界の食糧の供給能力はそんなに弱いのであろうか。マルサスの頃はそうだったかもしれない。しかし諸科学が発達して、食糧生産の上にいろいろの進歩を見せている現代にあっては、それは思いすぎではあるまいか。現にコロンビア大学ラッセル・スミス教授などは「世界食糧資源論」(筆者の翻訳書が出ている)の中でこれを明言し、ただ人間が米や麦にかたよりすぎるから不足するので、もし木の実を食べ、また山や海の動植物をもっと活用すれば、世界の人口がたとえ今の倍になっても、三倍になっても食糧は不足しないといっている。
 なるほど、日本だけについて見ると、敗戦後は国土もせまくなって、食糧の自給自足は困難かもしれない。しかし、総面積の八割五分をしめている山をひらき、これを活用して山丘農業を営み、栗、くるみ、どんぐり、しいなどを植え、家畜を飼って立体農業をおこない、またまわりの海を牧場とし、太平洋に鯨を飼うぐらいの意気で食糧資産をひらいていけば、人口が二億、三億にふえても困ることはないのだ。
 インドのある階級の者やスイスの農民は、どんな貧しい者でも羊の一匹はつれているので、飢え死にするということはないという。またハワイにはアルガバといって一年に六回も花が咲き、一本の木から三十石もの果実がとれるという木がある。こうしたものを飼ったり、植えたら、蛋白資源に困ることもない。日本人はあまりに米食にかたよりすぎる。満州の住民をごらん。彼等は高粱や、小麦、ひえを食べていて、しかも日本人よりも健康でいる。日本人はもっと栄養学を勉強せねばならない。
 もちろん、それでも自給のできない食糧は、輸入をあおがねばならないが、現にソ連、カナダ、アメリカ、アルゼンチン、オーストラリア、アフリカなどでは、食糧の生産があまって困っているほどなのだから、これらのありあまった国から、足りない国への食糧供給の道がつきさえすれば、戦争をするにはおよばないのである。
 戦争はもうまっぴらだ。人間同士、たがいに愛しあい、たすけあって、食糧のありあまっている国は足りない国にわかちあたえ、足りない国は、力づくでうばうようなことをせず、けんそんな態度でこれにかわる何かを供給して、平和のうちにとりかえっこをするようにし、世界の人々が共存共栄のできるようにしたら、どんなにこの世界はなごやかになることだろう。