少年平和読本(21)祖国愛か人類愛か

  愛国心だけでは足りない
    と叫んで銃殺された看護婦の話
 恩讐を越えて

 両軍が接近して対陣していた。月の美しい晩だった。歩哨が銃を小脇に警戒していると、ふと、目の先の敵陣地に人影の動くのが見えた。敵の歩哨だ! 幸いこっちは月の陰になっていて、敵からは見えないらしいが、あっちはその時、月光がさして丸見えである。歩哨は銃をとりあげた。敵の歩哨はまだ気付かないで、月光の下を、何かひくく歌いながらあるいている。月夜の美にそそられて故里の歌でも口ずさんでいるのだろう――そう思って、じっと耳をすまして聞くと
  わがたましいを 愛するイエス
  浪はさかまき  風ふきあれて
  沈むばかりのこの 身をまもり
  あめの港に  みちびき給え
 讃美歌だ。敵陣近きをわすれて、低くあるが、感動こめて歌いつづけているのだ。こっちの歩哨は、とりあげた銃をそっとおろして聞きいっていたが、歌の第一節がおわると、ひきいれられるように、彼もまたしずかに歌いだした。
  われにはほかの かくれがあらず
  たよるかたなき このたましいを
  ゆだねまつれば みいつくしみの
  つばさの陰に まもりたまいね
 敵の歩哨は、敵陣からおこった歌声に驚いて、歌うのをやめ、ふしぎそうに聞きいったが、それが自分の歌に唱和する歌であることを知ると、感激に声をふるわせて、次を歌いだしたのである。
  わが身はまたく けがれにそめど
  きみはまことと めぐみにみちて
  われの内外を  ことごときよめ
  つかれし霊を なぐさめ給わん
 敵味方二人の歌声が、彼我の敵陣の空で一しょになって、月光とともにしずかに流れていった。この戦争挿話は残念なことに、日本軍の戦線に起ったものではなく、アメリカの南北戦争のできごとであるが、恩讐を越えた、人間愛のうるわしさは、みなさんの胸の中をもひたひたとうるおしたことと思う。
 戦争は人間を狂わせる
 戦争は、ひどいことをするからこそ戦争である。人間性をもって行動したら戦争にはならない。戦争は人間を一時的発狂状態におく。あたりまえの人間も、一度、銃火の洗礼をうけると、人間の感情をうしなって、野獣になるのである。
 しかし、戦争は野獣性でも、戦うのは人間である。戦場にあっても、時には人間性に目ざめることもある。南北戦争の挿話はその一例だが、日清戦争当時、世上に広く伝えられた松崎大尉の物語もやはりそれであった。
 松崎大尉は進軍中、弾丸にあたってたおれている支那婦人の死体のかたわらに、乳をもとめて泣いている一人の幼児を見た。しかし、戦争のただ中だ。かわいそうではあるが見捨てていかねばならない。そう思って先へ進もうとするが、幼な児の泣き声は、大尉の心をとらえてはなさない。このまま見捨てて行けばなさけようしゃを知らぬ鉄砲玉がその母と同じように幼な児のいのちをもうばうかも知れない。そうでなくても、飢えがこの児を死なせるにちがいない。そう思うと大尉は、そのまま通りすぎることができなくなって、思わず近寄って軍装の胸に幼な児をだきあげて、そのまま進撃をつづけていった。日清役後の絵草紙に、肋骨のようにひもかざりのついた軍服を着た八字ひげの大尉が、左の小脇にべん髪の支那の幼児をかいいだき、右手に軍刀を高くさしあげながら、大ぜいの兵卒を指揮して進撃して行くさまの書かれてあったのを思い出す。
 兵士を動かしているもの
 しかし、戦争は南北戦争や、日清戦争当時とはくらべようもないまでにはげしさと残虐さとを加えて人間性を発揮している余地などなくなっている。敵を食うか、食われるかで、敵味方の合唱や松崎大尉を今日の戦場に期待するのはおろかかも知れない。だがこういうことはいえるだろう。戦場で銃をうちあう敵味方の兵隊は、個人としては何のうらみも、にくしみもない。ただ祖国が、たがいに戦っているため、その至上命令によって戦っているにすぎない。彼らを動かしているのは祖国愛とか、愛国心とかいう感情で、それ以外のものではない。もし、両国間の国交が断絶していなかったら、彼らは路傍であえばえしゃくをしないまでも、煙草の火ぐらいは貸したり、借りたりしたかもしれない。
 祖国愛も愛国心も、まちがってはいない。正しい人間感情である。現にわたしたちもみんな、多少の差こそあれ、祖国を愛している。愛国心をもっている。しかしそれだからといって、人間同士、殺しあうところまで行かねばならぬものか、どうか、この点に疑いをもたずにはいられないのである。もし、祖国愛や愛国心が、人類愛や人道よりも上に位して、後者は前者の前に価値がないものとすれば、南北戦争の月下の兵士や、松崎大尉の行為は、きびしく非難されねばならぬのである。みなさんはどう思われるだろう、彼らは、はたして非難せらるべきだろうか。
 愛国心だけではたりない
 ロンドンの大英美術館の東側に、一つの銅像が立っている。背面は十字架。前面は、イギリス兵でない他国の軍装をした負傷兵をやさしくだいている一人の看護婦の像。そして像の台石には「愛国心だけではたりない」ときざまれている。この銅像は一体何ものの像であり、また何を語ろうとしているものなのだろう。
 話は第一次欧州大戦のはじめにさかのぼらねばならぬ。戦塵がヨーロッパをおおい、ベルギーはまず戦乱のちまたと化した。そのとき、イギリス軍に従ってベルギー戦線に派遣されていた一人の看護婦があった。彼女はカベルといった。カベルは野戦病院で負傷兵を看護していたおり、イギリス軍の形成がわるくなって、退却をよぎなくされたが、ドイツ軍の進撃があまりにも急だったため、カベルのいた野戦病院はあとにとりのこされてしまった。病院はドイツ軍の手におちて、ドイツの負傷兵が運ばれてきた。カベルは、逃げようともしないで、次々と運ばれてくるドイツ兵を親切に看護した。それは、きのうのイギリス兵の場合と少しもかわるところがなかった。赤十字の精神がそうであるように、彼女も敵味方などという観念をもたず、傷つき病める兵たちを看護するほかに余念がなかった。ところが、戦争に昂奮していたドイツの将校の中には、カベルを疑うものがあった。彼女があまりにも親切にドイツ兵を看護するからである。祖国愛と敵がい心でこりかたまっている彼等には、カベルの挙動はあやしいとみるよりほかはなかったのだ。「カベルはイギリスの軍事探偵にちがいない」ドイツの将校はそう断定した。そして彼女は軍事探偵の疑いで銃殺されることになった。カベルは少しもさわがなかった。そして最後の瞬間まで、彼女の天職であり、神からあたえられた使命である看護の手をおこうともしなかった。彼女は重症のドイツ兵に対し、最後の手当てをしてから、静かにドイツ兵の銃口の前に立った。そのとき、カベルはただ一言いった。「愛国心だけではたりない!」こうしてカベルは彼女が心から看病したドイツ兵の仲間のうった弾丸に肉体をつらぬかれて、たましいだけは天国へ帰っていった。
 汝らの仇を愛せよ
 「愛国心だけではたりない」というカベルの言葉は、真の愛が国境を越え、恩讐を超えるものでなければならぬことを言ったものである。カベルのこの崇高な行為と言葉はどこから発しているのだろう。いうまでもない。基督の十字架の精神、キリストの敵を愛する精神に出ているのである。
 キリストはこういっている。
 『われ汝ら聞く者に告ぐ、汝らの仇を愛し、汝らをにくむ者をよくし、汝らをのろう者を祝し、汝らを辱かしむる者のために祈れ、汝の頬を打つ者には、他の頬をも向けよ。汝の上衣をとる者には下衣をもこばむな。すべて、求むる者に与え、汝の物をうばう者にまたもとむな』
 なんという大宣言であろう。世界の道徳の歴史に、かってなき革命的宣言といえよう。
 キリストはさらに言葉をつづけて次のようにいっている。
 『汝ら、人にせられんと思うごとく人にもしかせよ、汝ら、おのれを愛する者を愛せばとて、何のよみすべきことあらん、罪人にてもおのれを愛する者を愛するなり。
 汝ら、おのれに善をなす者に善をなすとも、何のよみすべきことあらん、罪人にても故しきものを受けんとて罪人に貸すなり。汝らは仇を愛し、善をなし、何をも求めずして貸せ、さらば、そのむくいは大ならん。かつ至高者の子たるべし』
 祖国愛か人類愛か
 敵を愛せよ、といい、にくむ者をよくし、のろう者を祝せよ、といい、辱かしむる者のために祈れ、という、その一つ一つが、みなできないことばかりである。ある者は、こうしたことは実行不可能というであろう。だが、キリストはこれを実行した。十字架上で殺される瞬間、みずからを殺す者のために祈っている「父よ、彼らを許し給え、そのなすところを知らざればなり」と。
 あなたは、いずれをとるのか。祖国を愛する愛か、それとも、敵をも愛する人類愛をか。