黎明7 擂鉢と遊ぶ

   摺鉢と遊ぶ

 私は四則阿波の田舎で育ちました。昔は庄屋をしたこともある大きな屋敷に幼時を過しました。家業は藍を製造してゐたので、沢山の人がゐて、常に百人分くらいの炊事をしなければなりませんでした。だから摺鉢なども、とても大きなものを使ってゐました。その摺鉢のこはれたのが二つ三つありましたが、これが私の幼い時、唯一の遊び道具、いはばおもちやといふものでした。
 それを裏庭の隅に据ゑ、その上に板をのっけて、石を積み土を盛って築庭を作り、鉢の中を池にして、その中に鮒や蝦を放してやりました。金魚が欲しかったのですが、田舎のことだから手に這入らない。私か金魚を初めて見たのは、徳島の町へ行った時で、実に珍しく、何とかして買ひたかったが、小学校七年間、遂に村では一度も見られませんでした。ただ一度、誰かか持って来てくれましたか。それは間もなく死んでそれからはもう自分の手には這入らなかった。
 それからまた、藍を溶くために使ふ甕や、美しい植木鉢の不用になったものを、底の孔を詰めて水を入れ、その中に、摺鉢と同じやうに鮒や蝦を人ておききましたが、長く生きてゐました。水を折々換へてやる程度で、二年半も三年も生きてゐます。霜がおりても、氷が張っても死ななかったのです‘
 私はこれで何年遊んだことでせう。六つくらゐから十一くらゐま
で楽しみました。毎日、朝起きるとその傍に行きました。私はこの
大きな家に六年間ひとりで育ったものですから、淋しかったので
す。従ってこれが何よりの遊びでありました。
 ときには山へ行って、木を取って来て接木をしてみたりしまし
た。何分農村のことでしたから、おもちゃらしいおもちゃはなか
った。お小遣ひは一ヶ月に二銭、おやつは自分の家で作ったヘギ餅
(かき餅のこと)ときまってゐました。その二銭でもって買ったお
もちゃといふのは、大体バイ(貝独楽のこと)とカミメン(メンコ
のこと)です。そして隣村へ勝負に行くのですか、私が強いもので
すから、皆が弱ってゐました。
 尋常小学校を卒業する頃から幻燈遊びに移った。私の家の店が神
戸にあった関係で、最初神戸から手に入れて、それから毎年一つく
らゐ買ひました。映す絵もガラス板に描いて盛んに拵へました。幻燈
の器械をこはして、そのレンズを取って望違鏡を作ったりしました。
 また阿波の国は有名な人形の国浄瑠璃の盛んな国であります
が、私も小学校の時に、納屋に大きな舞台を作って。その人形を使
って、人形芝居をやったものです。自分でも粘土で人形を作りまし
たが、これは芝居には使へませんでした。しかし、その人形を作っ
た喜びは今も忘れることが出来ません。
 冬になると、凧揚げをやりました。阿波名産の奴凧といふのがあ
って、私は五つくらゐから奴凧を上手に作ってゐました。